局所麻酔液を歯肉より注入している際に、患者さんから強い痛みを訴えられた経験はないだろうか?
除痛のために歯肉に針を刺入する「皮肉」を有する局所麻酔であるが、その行為自体が強い痛みを惹起したとなれば、いよいよ皮肉どころではない。「火達磨になった人を救うために消化器を噴霧したら、消化剤が可燃性燃料だった」ぐらいの理不尽さをおぼえる。
急性炎症を生じている箇所に不用意に局所麻酔液を注入すると、急激な内圧亢進によって激痛が走ることがあるのである。この時の痛みは相当に強いようで、瞬間、患者さんがエビ反りになるほどのレベルであることもある。そしてその痛みは、弱まることなく持続し続けることもある。抜歯のための局所麻酔が著しい痛みを惹起してしまうことが原因で、抜歯を中断せざるを得なくなることが起こりうるのである。今回は、そんな話である。
過去、とある先生が「全身麻酔で、どんなに注意しても悪性高熱症が防ぎきれないように、浸麻で激痛を与えてしまうことが残念ながらある」と述べていたの私はいま思い出す。ただこの発言は、運が悪ければ……というニュアンスを含む。悪性高熱に比べれば、術者の心がけ次第でこの痛みは確実に予防できるはずだ、と私は考える。
「期待はあらゆる苦悩のもと」-シェイクスピア-「一週間前からずっと痛くて、痛み止めを飲んでも効かない悪い歯があるので抜いて欲しい」と緊急来院された中年患者さん。右下7の自発通と打診痛が酷く、舌で患歯を押すだけで飛び上がるほどの痛みがでる。当然、食事などできない状態で煩悶する日々である。強い炎症を抱える歯が口腔内に存在し続けていることは、全身的にも決して良くない。そして、強い痛みを抱える歯が口腔内に存在すると、それだけで生活に暗い影が落ちる(「歯の痛みは暮らしの痛み」)。
デンタル写真で、生活歯支台のFMCで、歯周炎による支持歯槽骨の喪失・垂直性骨吸収・上行性歯髄炎のトリプルパンチでホープレスな状態であることがわかった。主訴の解決を図るなら、抜歯が最も確実、という場面である。歯の保存を狙うならエンドを選択して精一杯の根管治療を果たすべきかもしれないが、この状況でそれが可能だろうか?と考えると不適切な選択に思える。
いいや保存すると胸を張って治療方針を決定できないのは己が未熟だからこそゆえ。
デンタル写真から患歯はホープレスな状態であり、ひとまず消炎処置で嵐が過ぎるようやり過ごすか、抜歯するか、消炎後にエンドで保存を試みて補綴〜部分床義歯の鉤修理の流れに持っていくかの大まかな3通りの治療方針が考えられることを説明。抜歯を希望された(他にも幾らかの理由があるが省略)。
患歯を抜歯する原因除去によって、除痛と炎症除去を達成することになるわけであるが、このような炎症の程度が強い場合は基本的に抜歯は望ましくない。炎症で局所のpHが酸性に傾いていると、浸麻が奏功しにくいからであるこれは「Henderson-Hasselbalchの式」から、局所のpHが低いと脂溶性の高い遊離型が占める割合が低くなるためである(もう少し細かな学問的理由は忘れてしまった。国試前の学生時代が、一番賢かったのではないか?)。
しかし、たとえ炎症が存在しようとも、抜歯すると決まったのなら局所麻酔を奏功させて患歯を抜歯しなくてはならない。そして、安全な外科処置のためには、無痛処置を可能とする「効かせる」麻酔が欠かせない。
重度歯周炎で動揺のある歯の抜歯は、難抜歯にはまずなり得ないと考えられる向きがあることから、新人歯科医師が「やってみ」と任される場面が多いと思われる。しかし私は、これは安易に考えすぎであると思う。重度歯周炎で動揺のある歯の抜歯であれ、完全に痛みなく患者にストレスを与えることなく抜歯を遂行させることは、案外に難易度が高い処置だと考えているからである。そして、重度歯周炎の抜歯に伴う局所麻酔は、不用意な麻酔液の注入で激痛を生じさせるリスクがある。
果たして、この患者さんに浸麻を施した時、私の不用意な操作が原因で激痛を与えてしまったのであった。私は、まず齦境移行部に浸麻を施して奏功範囲を付着歯肉に広げ、それから「本番」である付着歯肉に刺入を求めることにしている。その際に、刺入点より出血が目立った
※。そのまま、局所麻酔液を注入していくと、患者さんは強い痛みを訴えた。
炎症部位への局所麻酔液の注入が、必ずしも激痛を引き起こすわけではないが、自発痛として内圧亢進をきたしている場合に局所麻酔液がそれを助長すれは、激痛が生じる。まかりなりにも麻酔液を注入しているから、麻酔効果によって痛みが減じていきそうなものだが、予期せぬ激痛によって閾値が低下してしまえば麻酔の効果も望めなくなる。
痛みを訴えられたことから私は慌ててその部位での浸麻を中断して、別の部位から麻酔効果を発現させるべく歯根膜注射を試みた。これは悪手である。歯周組織の大きな破壊を伴う患歯の歯根膜を狙うのは単純に難しいし、感染源の中を針が刺入していくからである。下手をうつと、炎症巣の近くに局所麻酔液を注入するだけの結果となり、要するに激痛の発生につながることになる。
除痛のためにと局所麻酔を施した患者が強い痛みを訴え苦悶の表情で痛みに耐えている様を前にして平常心でいられる歯科医はいないはずであり、私は表面上は冷静さを装いつつも狼狽していた。バイタルチェックで測定した血圧は正常な値を示していた。
抜歯に際して行う歯周靭帯の切離(Er:YAGで行う)は無痛であったために、抜歯は可能と判断して鉗子にて脱臼させそのまま抜去した。Er:YAGと鋭匙で肉芽を掻爬・除去して抜歯創上に止血ガーゼを位置させ噛ませることで圧迫止血を行なった。
「抜けましたから後は血を止めるだけですよ」伝えると、一応の安心を得てはくれたものの、苦悶の表情で「実はかなり痛くて…」とおっしゃる。痛みの原因歯を除去しても痛いとなると、誤診してしまったか?と私は正直なところ気が気でなかった。ひとまず抜歯窩に血餅を作らないことには安心できないので、圧迫止血を終わらせるまで待ってもらうことにした。
果たして血餅は得られたものの、まだ痛いままだとおっしゃる。それどころか、より痛みが増してきたという。浸麻中に激痛を走らせてしまった経験は過去にあるが、このような持続性の強い痛みに遭遇したことはない。いずれにせよ、この痛みは自分の手技が原因で生じたものだ。私は胃が痛くなった。
ここまでの強い痛みを起こすとは、ひょっとしたら下顎神経領域にトリガーポイントのある三叉神経痛だったのか?と疑ったが、流石にそれは突飛である。炎症部位への不用意な浸麻手技を原因とする医原性疼痛に間違いない。そしてこれは、時間を要するものの痛みは徐々に引いていく(ハズの)ものである。
そんなわけで、コトの痛みの原因と予後について説明するが、患者さんから返ってきたのは怨嗟に満ちた視線ばかりであった。これだけの痛みを与えてしまったのであるから、当然のことである。
2日後に抜歯後SPで来院された患者さんはケロッとしていた。「自殺したくなるほどの痛みが続いていたけれど、先生の言う通り麻痺が(麻酔が)切れると同時に痛みもなくなったよ」とのことであった。私は救われる思いであったが、日常的に行う局所麻酔を意識漫然に行えば、今回のような医療事故に等しい事態に繋がってしまうものであるから襟を正さねばならないと反省した。歯科麻酔学の最初の講義で「歯科麻酔は、患者さんの安全のためにある」と教わった言葉を思い出した。このところ、局所麻酔に対して意識が疎かになっていたことは否定しようがない。
痛みを与えることなく麻酔を施し、痛みを感じさせることなく施術を終える。これを確実に達成できるかどうかを追求する姿勢は(
そんなもん当たり前やろといわれても)、歯科医師にとって重要な課題であり続けているのである。
※歯肉への針の刺入でやたらに出血してくる場合があるが、これは針が肉芽のような炎症部位に達したことを意味しているものと考えられる。炎症部位への注入であるから、効果が乏しいだけでなく疼痛を惹起する可能性がある。刺入点を多く採ることは厳に慎むべきであるが、この場合は刺入部位を別に求めるべきである。