2024年02月11日

オフィスホワイトニングはいまだに苦手意識


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オフィスでこんなに白くならないと思うのだが


歯の漂白は、私はオフィスホワイトニングから臨床経験を積み始めた。

私が研修医だった当時は、歯の漂白といえばWalking-Bleachingを指したし、それを超えたところにある術式としてのオフィスホワイトニングはといえば松風ハイライトが唯一存在していた頃だった。ホームホワイトニングは、メジャーではなかったはずだ(記憶にない)。

その松風ハイライトは、歯牙表面を脱灰させて白くしているだけで歯質へダメージを与えているだけだ(それに、思ったより白くならない)という臨床評価が定まっていた。Walking-Bleachingは安定した漂白効果を示すが、オフィスホワイトニングは結果が不安定なのだ。だから、人気がなかった。結果が出にくい処置を自費診療で行うのは心理的にストレスが大きく楽しくないものだ。

保存科に在籍していたこともあって、歯の漂白は周囲の人たちから確かなニーズがあったし、個人的な関心もあった。なんとか歯を白くしたい。そういう気持ちがあった。しかし、どうすればいいのか。ホワイトコートとかいう、歯塗る白いマニキュアみたいなアプローチはとりたくなかった。

その後、ピレーネという商品がモリタから発売されていた記憶がある。こちらは歯質ダメージを抑えつつ歯を漂白させる設計を謳っていた。欣喜雀躍、大期待のマインドで使ってみたが、全く漂白効果は得られなかった。私は胃が痛くなった。俺は臨床センスがないのではないか?

オフィスホワイトニングには、メーカーが指示する手順の中に、なにか臨床的なヒントが隠されており、それ見つけないと結果をだせないのではないか。私はそういう仮説をたてて、自身や同僚を被験者にしてオフィスホワイトニングを繰り返して施術経験を積むことにした。

ピレーネ10分x3回を1セットとして3日に分けて3セット行うと、歯はわずかに明度を上昇させる漂白効果(第三者の目見て白くなったことが分かる)を見せた。しかし、漂白効果の範囲は上下3-3に限られるし、なにより労力の割にこれではコストパフォーマンスが悪すぎる気がした。それもこれは、普通の光照射器ではなく、波長を紫外線領域に近づけた特注の光照射を用いての結果であった。得られた結論は、光照射の波長は紫外線領域に近づけた方が結果が出るということであった。ただし、皮膚にあたると日焼け効果がでるリスクがあったので取り扱いは慎重になる。

その後、漂白ジェルに触媒の二酸化チタンを加えたり、化学反応を増強させるために温度を上げる工夫をしてみたりしたものの、目立った改善効果の手応えがなく、落胆してしまった。

海外の歯科材サイトを利用して、高い効果が期待できるオフィスホワイトニング用材料(ブライトスマイルとかオパールエッセンス・エクストラブーストとか)を取り寄せる手もあったが、使用材料を海外製に変えて有意な改善を期待する熱意もなくなっていた。というか、オフィスホワイトニングに飽きてしまった。

そして、当時は入金しても商品が届かない悪質な詐欺サイトが横行していたので購入にはリスクが伴った。実際、私は数万円をフイにしてしまった経験がある。爾来、海外の歯科材料を買うのは信頼のおけるスマイルUSしか利用していない。


現在のところ私にとってオフィスホワイトニングは、ホームホワイトニング前の「助走」として用いるものになった。これは、短時間での歯の漂白を特に期待するものではない。漂白対象とする歯牙に過酸化水素の漂白効果を与えることで、ホームホワイトニングの効果発現を少しでも早くするためのものである。幸いして、これは効果がある。
 
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2024年01月12日

歯肉癌 carcinoma of the gingiva

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古本購入した医学書院の『標準口腔外科学(第三版)』のテキストから。学生ならフーンと流し読みしてしまいそうだが、重要なことが羅列されている


口腔病理学の講義だったと思うが、「(この教室にいるみんなが歯科医師になったとして)半分の諸君は生涯に一例はなんらかの口腔癌に遭遇する」と聞いた覚えがある。歯科医が口腔癌に遭遇するのは、そのぐらいの確率であるという例えである。交通事故よりは低い確率、といったところだろうか。「遭遇率は決して高くはない。されど決して無理できない確率」のように思えるし、そういうニュアンスを伝えたいのであろう。つまりは、歯科治療の担い手となり、患者の口腔内を覗く身分になるのであれば、口腔癌というものの存在は常に意識しておかねばならぬ、という教えのように思える。

果たして、私個人経験で話を進めれば、この話は控えめに過ぎる。
上顎洞癌、そして歯肉癌に遭遇しているからである。
私が格別に粘膜病変を発見する優れたハンターなのではない。
少なくとも言えることは、口腔癌を含める粘膜病変は我々が想定しているよりも多く存在する。
そして見過ごしてしまいがちな厄介な存在であるということだ。

口腔の粘膜病変は、漫然と口腔内を覗いていると見落としてしまいやすい。
さりとて、それでも「見過ごした」という大きな事故は起きにくいほどの遭遇確率であったりする。

実際、口腔癌に遭遇せずに歯科医師人生を終える先生もおられるだろう。ただ、それは運が良い人だと思う。医療漫画『ゴッドハンド輝』のテル先生のような絶対的な天運を持っておられるような人ではないか。つまり、私を含めた多くの歯科医師は、口腔癌に遭遇することは起こりうる事象として認識して日々の診療に従事すべきである、と私は言いたい。


最近、私が経験したのは歯肉癌である。ケースレポートではないので詳細ははぶく。

「ひどい虫歯の周りの歯茎が腫れているので抜歯して欲しい」が主訴であった。果たして当該部に自発痛はなかったが、残根にしては周囲の歯肉の形態が不正で、滲むような出血痕跡を認めた。直感的な違和感をおぼえた。

通常であれば患歯は保存不可能での判断で抜歯、という流れになりうるが、もしこれが歯肉癌であれば抜歯は禁忌である。私は逡巡したが、患者に「ひょっとしたら単なる歯茎の腫れではないかもしれない」と前置きして、口腔外科の受診をすすめ紹介状を書いた。

それから数ヶ月、なんの知らせもなかったので「頼りがないのは無事な証拠。俺の思い過ごしだったのだろう」と捉えていたが、患者より連絡があり、歯肉癌の診断で手術を終えましたとのことであった。私は臨床医として肝を冷やす思いをしたのだった。
 


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2023年12月29日

なんじゃらほいなPEEK冠、の巻

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こっちはピークちゃん


12月迎えて数日が経過したある日、私はPEEK冠と出会った。歯科技工所の営業の人に、「このたび保険導入されて7番にも金属アレルギーに限定されず白い冠が入ることになりましたが〜」とあたかも周知の事実のように話を振られたのだ。

知らねえよしゃぶれよ

と言いそうになりましたが、歯科医師は専門職として貴賓ある振る舞いが求められる厄介な人種でありますから「詳しくは理解していないので教えて下さい」と述べるにとどめた。


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PEEK冠は、要は「保険で大臼歯に入る白い冠」である。白い冠といえど、我々が慣れ親しんでいるセラミックやCAD/CAMのそれとは見た目が異なり「見た目的に死んだようなアイボリー」なのだという。いやそれどんな冠なんだよ?と興味が湧いた次第。研修医の時分、研修先の協力型施設のチェアサイドで散々に作りまくった即重TEKみたいな外観なのだろうか?丁寧に研磨してレジンポリを走らせる案外に綺麗な見た目に仕上がった覚えがある。

訊けば「それより酷いかも」というから、いよいよ凄そうであります。古びて黄ばんだファミコンみてーな色なのでしょうか?私の気は昂った。

しかし年内は供給が不可能だという。初期オーダーが多すぎてガス欠起こしたらしい。いまんとこ松風のPEEK冠用ブロックしかないそうな。

代わりに、でもないが接着時の注意として松風の接着性レジンセメントとPEEK冠内面専用プライマーの使用遵守に説明を受けた。松風製品の囲い込みだあっと思わないでもないが、こと接着に関しては同社の製品で揃えるというのは暗黙の了解なところもあるので当然の説明ではある。松風も商売が上手になったものである(褒)。


さてこのPEEK冠の存在に興奮した私は矢も盾もたまらず知り合いや友人の先生に「聞いて聞いて〜7番の歯に新しく保険で白い冠が入れられるんだって〜」というようなメッセージを送信した。とまれ反応は冷めた感じであった。期待も歓迎もしていない心理が読み取れた。そもそもCAD/CAM冠の適応を7番まで伸ばせばいいだけの話ではないのか?言われてみればそうである。

とまれ、歯科の新技術を保険導入してみるというのは悪いことではない。抗破折性が高いとか、なんらかの歯科理工的な理由もあるのだろう。ノンメタル修復は国民からの希望もあるし、価格が不安定で高騰している金パラの使用比率を下げていきたいのだろうという保険者側の狙いもありそうだ。臨床成績が良いのなら、全歯でPEEK冠OKという保険でノンメタルな路線に踏み切ることだってできよう。

今のところ、PEEK冠についての評価は仄聞もないし私も判断のしようがない。
チタン冠のように保険導入されたはいいが臨床医からの評価が芳しくない(?)という結末になるかもしれないし、脱離も破折も有意に少ない優れた性能を発揮するかもしれない。

ひとまず、急に保険から外されることはないだろう。少なくとも「選択肢の一つとして」存在が残るのは悪いことではない。

チーズはどこへ消えた?』でもないが、冒険を十分に味わって新しいチーズの味を楽しむべきであろう。PEEK冠が、あなたに発見されるのを待っている新しいチーズかもしれない。


とりあえず適応症例の機会に恵まれたのなら試してみたいところだ。



※大臼歯に硬質レジンブロックをデジタルに削り出して拵えた冠が、果たして口腔内の咬合関係を長期的に安定保持してくれるのだろうか?という、導入時に私が抱いた一抹の不安は、いまだに払拭されてはいない。咬合の要である大臼歯の歯冠補綴は、やはり金属に適うものはなく、わけてもゴールド冠が最良の選択ではないか、と私は考えている。キャストクラウンは「出涸らしの技術」であれ、なんだかんだこれからも通用する信頼性があったりするものだ。
ラベル:PEEK冠
posted by ぎゅんた at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治以外の臨床 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月15日

歯科医師人生の、最後の患者

ふと自分の人生の終末を考えて生きるようになってきたことに気づく。
これは、いよいよ人生も佳境に入ったのだろうと前向きに考えることができる。いろいろなことがあった。しかしまだ、やりたいことは残っている。歯科治療はまだその深淵の入り口にも到達していない。歯科医業とは別にやりたいことも残されている(手を付けていないだけだ)。


私の歯科医師人生は、母校の研修医として始まった。
自分の初めての患者さんは、歯学部の(要は後輩)学生であった。奥歯の痛みが主訴で、はたして上顎智歯のう蝕が原因と思われ抜歯とあいなった。撮影したオルソパントモ写真に歯牙種と思われる所見があり「初めての患者でこれは、君は持ってるねえ」と口腔外科の指導医に言われたことを思い出す。主義的に難しい抜歯ではなかったが、なにせすべてが初めての研修医にとっては診断から説明から施術からすべてが緊張の連続で卒倒しそうであった。浸麻と歯周靱帯の切断までは問題なかったが、ヘーベルを近心頬側隅角にかけて脱臼させるところがうまくいかず指導医と交代した記憶がある。

それからも担当する患者が口腔外科の症例になることが続いて、口腔外科の指導医から「縁があるんじゃない?ウチに来なよ」と誘われたものであった。
悪い気はしなかったし、学生時代から口腔外科は好きだったので食指が動いたが、その一方、私は将来的に実家に帰って親の跡を継ぐGPになると考えていたことと接着歯学に強い興味があったことがあって思惟逡巡した。また、口腔外科の授業で口腔外科の講師自身が「口腔外科専門の病院を開業しても食っていけません」と述べていたことや、「口腔外科に行く連中というのは、聴診器をぶら下げて病棟を歩きたいだけ」とか「医者からバカにされてる連中」という陰口を聞いていたこともネガティブ要因としてあった。

今にして思えば、将来はなるようになるし、ネガティブ要因も「所詮は第三者の戯言よ」と聞き流して、口腔外科の専門医を目指して粉骨砕身、修行を頑張ればよかったのだ。平凡なGPになって分かったのだが、口腔外科の知識と技術に長けた歯科医ほど地域から望まれる人材もないのだ。

もっとも、自分の選択してきた進路に後悔の念はさしてない。
ただ、格好つけて言えば口腔外科に行かなかったのは若さゆえの蹉跌というやつで、本当のところは私に決断力がなかっただけだ。


大鐘稔彦の名著『外科医と「盲腸」』に、外科医の世界では「外科はアッペに始まりアッペに終わる」という教訓が語り継がれているというくだりがある。同じように、口腔外科にも「口腔外科は抜歯に始まり抜歯に終わる」という教訓がある。

外科医であればアッペ(虫垂炎)がそうだが、口腔外科医にとっては抜歯の診断からリスク把握、処置の遂行、適切な術式の選択と施術、誤診時の対応からエラーを起こした際のリカバリーに至るまで、そのすべてに対応できるようになればまず一人前である、という意味が透けてくる。箴言のように思える。

私自身は抜歯術に対して得意でも不得意でもないといったところだし、智歯の抜歯にしても手に余る難症例でなければ紹介せず自院で抜歯するようにしている。抜歯の秘訣は、まず第一によく効く局所麻酔であると考える。これは臨床的には「痛くない浸麻」というところでは半分正解であり、患者に無用な不安や緊張を抱かせない心理コントロールから確実な伝達麻酔の駆使をして及第点に及ぶと考えている。多くの歯科医師が考えておられる通り、「痛くない抜歯」とは言葉にすると簡単でも、実際は奥深く難しい。似たようなケースであれども同じ症例はひとつもない。

こういうこともあって、私は完ぺきに満足のいく上顎智歯抜歯ができたら、それこそ自分の歯科医師の最後の仕事にしてもいいと考えている。多分にロマンチストかもしれないが、初めての症例が上顎智歯抜歯であったのだから終わりもまた上顎智歯抜歯であってよいだろう。
簡単に抜けましたよ。多少の出血もありましたが今は止まっていますから安心してください、と患者の手を取って終わりを迎えられればいうことはない。『なみだ坂診療所』の織田鈴香の最後の患者が膝小僧を擦り剝いて泣いている女の子であり、『ER緊急救命室』のグリーン先生の最後の患者がトゲが指に刺さった女の子であったように。

グリーン先生はきっと、女の子の指のトゲを抜いた瞬間に思い出したのだ。かつて愛娘のレイチェルも、指に刺さったトゲを自分が抜いたことがあったと。だから、医師としての自分に別れを告げて残りの人生をレイチェルのために使う父親になること決心したのだと思う。そこには、曇りのない悟りがある。

学生時代、歯学概論の時間に「患者とは、心に櫛が刺さった人のことである」とならった。医者は、病を憎み患者を愛せよともならった。実際の患者は、わがままでスケベで指示を聞かず我儘で無礼さを兼ね備えていたりする、何のことはない我々歯科医師とまったく同じ人間であったりする。それでも歯科医院を訪れる患者は、歯痛をはじめとする生活の痛みを心に刺している人たちだ。医療の根源は手当てにあるときいたことがある。苦しみ煩悶する人に寄り添い、患部に手を当て苦しみを分かち合う心に癒しがあるのだと。病を抱える人のそばで訴えを聞き、安心させて、手を添えることであると。

歯科医師も長くやってると仕事への慣れがでてきて、望まれないアイデンティティに染まってしまうものだ。せっかちで、話を聞かず、怒りっぽく、損得勘定ばかりがはたらき、とかく独りよがりな歯医者になる。私も、そうだ。でも、これは良くないことだとわかっている。乱れた心理に整合性を与えようとアレコレ思索しても解決することはない。バラバラになっている部品を箱に入れてシェイクしても決して元には戻らない。臨床の場で自分で解決するしかない。最後の患者はまだまだ当分、先の話になりそうだ。
 

posted by ぎゅんた at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治以外の臨床 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月12日

贔屓の技工士さんにサブスクしたいっ

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最近の動画のライブ配信では、配信者に対してリアルタイムでサブスク(投げ銭)をすることができたりする。サブスクをすると、コメント欄に「○○さんが✖︎✖︎円のサブスクをしました」みたいな通知が出るようになっていて、サブスクに気づいた配信者から謝辞やコメントがもらえたりする。配信者側はお小遣いが貰えて単純に嬉しいし、サブスクした側も特別な好意を持つ相手(推し)から特別な扱いを受けるわけですから嬉しいわけである。使い古された表現ですが win-win な関係というやつである。

これらをして私が思いついたのは、いつもお世話になっている歯科技工士さん(以下、テクニシャン)にサブスクができないものだろうか?ということである。

納品された歯科技工物が極めて良好な出来でセットできたとしたら、これを作製してくれたテクニシャンに「良いね!」したくなるのは、SNS全盛な世の中であることに関わらず人情というものであろう。

当院ではまだ導入していないが、口腔内スキャナーによるデジタル印象が一般化してくれば、歯科技工所との連携はより効率的になっていくだろう。歯科医院と歯科技工所との関係も濃密になるのではないか、と思う。従前の技工指示書にドクター側が文章で注文をつけている段階から、作成してくれるテクニシャンとオンラインで打ち合わせも可能になっているからである。リモートワークは、当然のように歯科医療現場でも活用できる(ただ、テクニシャンは奥手な人柄の方が多いと聞くので嫌がられるかもしれない)。

顔が見えている相手に気合の入った技工物を作ってもらえるというのは、臨床上、歯科医師冥利につきることであろう。これは良い流れのように思える。

我々は送られてくる技工物をセットするだけではなく、その先の、技工物を作成してくれたテクニシャンの存在を忘れてはいけない。自分で歯科技工物を作製するのであれば話は別かもしれないが、今時、そのような歯科医師は絶滅危惧種であろう。

技工所との付き合いによっては、自分の技工物は決まったテクニシャンが担当になってくれたりする。その場合、言葉だけではない謝意を伝えるべきではないかと考える。寸志というやつである。

しかし、いくら寸志といえど相手が恐縮するほど高額であってはならない。色々な面で迷惑をかけるからである。受け取る側が負担に思わず、嬉しさだけを素直に持ってもらえるようなものが相応しいと考える。

このあたり、急ぎの場面でタクシーを拾って命拾いならぬタイム拾いをしたような場合、会計時にわざと釣り銭が出るような支払いをした上で「お釣りはいいですので、運転手さんが取っておいてください」と言って立ち去る昭和的な男のマナーに通じるものがあると思う。ほんの数百数十円だけれども、もらう側は棚ぼた的な嬉しがあるので気分も良い。遠慮のいらない額だからこそである。次の客を拾ったタクシーは、気持ちの良い接客をするだろう。客も、良いタクシーを拾えたと気分が良いに違いない。小さな善意が転がって世の中が明るくなるのである。

まあこれは書生論に近いものだろうが、テクニシャンに小さなサブスクをすることが悪いことであるはずもない。

現状、素晴らしい技工物を気持ちよくセットできたからといってテクニシャンに「良いね!」することもサブスクを送ることもできない。IT全盛なのだから、本来は指先ひとつでできてもよさそうなものだ。でも、できないので仕方がない。私は、石膏模型と指示書を受け取りに来てくれる担当者に言伝のように頼んでいる。贈り物は500円のQUOカードがせいぜいである。なんらかの折にQUOカードを入手することがあるのだが、あいにく私はコンビニを利用することがないのでこれを使うアテがない。そこで嫁や友人に渡すことが多いのだが、その送り相手にテクニシャンが加わるだけである。なんの意図も気負いもないのである。

もっとも重要なのは、正確で美しい作業用模型を提供することである。

しかし、怠惰に生きる私はその使命を充分にこなしているとはいいがたい。そんな私の不調法をカバーしてくれるような素晴らしい技工物を納品してくれるテクニシャンにはいくら感謝してもしきれないのである。
 
posted by ぎゅんた at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治以外の臨床 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする