2022年09月07日

(作品紹介)砂場の少年



1990年頃の中学校を舞台にした小説。

灰谷健次郎の作品らしく、学校教育とはなにか、生徒に対して教師はどのような存在であるべきかを読者に問う内容になっている。理想の教育とは、このようなものである、という作者の具体的な答えが記されているものではない。作者が理想とする教育像が投影されている物語を読んでみて、読者が推し知るしかない。

読んでみて、私は作者の教育者としての確かに温かい心に触れることができた。多感な中学生にとって、本作の主人公のような教師がいてくれれば、とも思う。しかし、現実的に中学校の先生がみんな本作の主人公のような考えで教壇に立つことはないだろうとも思う。作者にしても、そのことが分かっているだろう。だからこそ本作を書きあげていけたのではないか。それも、辛い気持ちを抱きながら。作者は現場の教育や世の中に絶望していた時期であろうから。

この作品より以前に上梓された『兎の眼』もまた、教育を問うものであった。若々しさの中に生々しい逞しさと美しさのある話であった。

私は大学生の頃に灰谷健二郎の存在を知った。その経緯については、いまでは思い出すこともできない。インターネットでなんらかの情報に当たった際に枝分かれ的に検索をかけた結果として知ったのかもしれないし、図書館の本棚で偶然に出会ったのかもしれない。『兎の眼』は文庫本で読んだ。札幌の古本屋で購入した記憶もあるが判然としない。いずれにせよ記憶に残っているのは、極めて大きな読後感であった。本や読書のことをを「知の扉」と形容することがあるが、確かにあの読後感は、扉から新しい世界を垣間見た感があった。矢も盾もたまらず学友に読書を薦めたが、温かい反応は得られず徒労に終わった。

今なら分かるが、本というものは、他人に薦められたからと読み始めるものではないのだ。
ここの中になにか鬱屈とした問題意識があるときに、風に知らされるように(その本の)存在を知った時にふと読んでみようと食指が動くものなのだ。そうしたタイミングで良書に出会うと、それは大概に生涯の一冊の仲間入りを果たしたりもする。人生において色々と悩んでいる時期に出会う本には印象深いものが多いはずだ。お気に入りの作品の多くが学生時代に読んだ本になりがちなのは、そうした理由によると考えられる。


実子もいまや小学生になった。

子の成長や進路を考えてみたり、昨今の子どもたちの学力低下懸念についての記事を読んだり、世に言う「PTA問題」に実際に直面したり、教育現場のブラックさと教員疲弊の姿を目の当たりにしたりもすると、お気楽に歯医者家業をやって生きているわたしのような愚鈍な人間でも思うところがある。そんなタイミングであるからこそ『砂場の少年』に出会ったのかもしれない。
 
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2021年10月06日

口腔外科の知識は潰しが利きます

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今でも読んでるお気に入りの本はこれ


もし、この記事を現役の若い歯学部生が読んでおられるなら、私は口腔外科系列の知識を網羅・整理・知悉させておくことを強く推しておきたいと思う。

くだらん思い出話であるが、私は歯学部の4年生になったときに、購買で麻生デンタルアカデミーの「実践 口腔外科」を購入して、電車で移動する際は常にそれを読んでいた(この「実践」シリーズは、要は国家試験過去問と解説集である。DESのANSWERシリーズと並んで「定番」だと思うので懐かしく思う先生が多いのではないか)。口腔外科を選んだのは、値段の割に分厚かったのと、当時は病理学が好きだったので、口腔外科は病理と関連性が強そうだと漠然と考えたからに過ぎない。しかし、結果としては良かったのである。

読んでいた、というのは、問題を「解く」ための知識はその時は有していなかったからである。要するに、チンプンカンプン満足に解けなかった。
国家試験では、どのようなことを訊かれるのか?正解を選ぶために必要とされる知識はなにか?を整理するところから始まったわけである。問題を解くための勘所や要領を掴んでいくところから始まったのである。

口腔外科の問題が良かったのは、解くために必要とされるバックグラウンドの知識が、特に基礎科目とつながっているからであった。解剖学の知識から生理学、生化学、内科、病理、となにかしら紐付けされている所があるので復習のようにそちらの勉強をし直すのである。関連性が見えてくると、理解進みが早くなるし、なにより記憶するのが楽になる。これを愚直に繰り返していくと、習ってきた内容の意味が私にも理解できるようになってくるし、バラバラだった知識が有機的につながりはじめ、問題を解くためにちょっと複雑な思考もこなせるようになって行った。こうなると国家試験の問題と向き合うのが楽しくなり始めた。教科書を目繰り返して調べることも苦にならない。分からない箇所のなにが分からないかが分かると、先生に堂々と質問にだって行ける。口腔外科を中心に知識を整理すると、いわゆる医学系の知識が優先されて整理されてくるので、なんとも勉強して賢くなっていく気分が昂揚してくれるのも励みになる。

勉強がつまならいことほどの苦行はない。学問に向き合う姿勢が多少は浅薄であれなんであれ、勉強することに楽しさを見出せることを優先させるべきである。国家試験の勉強に関しては様々なアプローチがあるだろうけれど、少なくとも私にとっては、4年生になりたてのころに実践の口腔外科の過去問(と解説)から始めたアプローチは正しかったように思う。

学生の頃に学んだ印象深いことは、記憶に深く紐付けされるようだ。

私は歯科医師になってからも、口腔外科に関する知識だけは人並み以上にはあったと思う。その全てが、臨床の現場で目の前の患者さんに役立つ「知恵」になってくれたことは少ないけれども、知らないことで(歯科臨床上での)考えが及ばずに恥ずかしい思いをしたこともまた少なかった。もっとも、たとえ恥ずかしい思いをしたら、そのことを素直に受け入れて勉強しなおせば良いのだが。

口腔外科に関する知識があってよかったと思うのは、医療面接や患者さんとの会話のなかで、ふとした拍子に歯科医学からまた少し医学的に寄った専門知識を口にすることで患者さんから信頼される機会があることだ。「眼医者歯医者も医者ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」なんて言葉があるように、歯科医師は医師の範疇にはあれども医者と同格ではないし、医師が知っているべき知識が要求されることはない(というより、歯医者が医者ヅラすると軽蔑されるのがオチであろう)。

このへんの機微は患者さんも心得ているわけで、歯科医師になんらかの医学的知識の乏しさがあったり、チョッピリ痴鈍なところがあったとしても、怒ったり不信感を抱くことはそうないのである(患者さん側からすると、歯科医師に求めるのは自分との相性であったり、優しくて怒らない人柄であったり、恐怖や痛みのない治療を心がけてくれる姿勢だったり、診療期間がなるべく短くしてくれる仕事内容などが遥かに優先される)。

とは言っても、単純な比較論としては頭脳が明晰であって医学的な知識が豊富な歯科医のほうが望ましいのはいうまでもない。しかし、それを笠に着てもいけない。専門用語を口から滔々と流して自分の立場を権威づけするのではなく、自身が専門的な知識を有していることはあなた(患者さん)のためにある、ということを理解してもらい、安心してもらうだけでよいのである。

posted by ぎゅんた at 08:53| Comment(0) | 書籍など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月18日

(書籍紹介)『自費診療が激増する10秒間の声かけ』


「指導・監査100%合格のカルテ」の著者であられる小出一久先生の最新作です。(→過去の紹介記事

小出先生のファンなので速攻で買いました。買ってよかった
皆さんもご一読ください。私のグダグダとした愚見など不要なのであります。



ホケンじゃない!
歯科医であれば、おそらく誰もが自費診療を増やしたいと考えているものです。それは、歯科医師として働いて10年近くにもなれば、保険診療だけは自分の考える理想の治療ができないことを悟るからでもありますし、保険診療という厳格なルールより外れて自分の腕ひとつで評価される仕事をしたいという果てなき挑戦心があるからです。

自費は保険診療と違って儲かるから、と考える歯科医師も多数存在しますが、それは実のところは評価の低すぎる保険診療に対する不満の裏返しに過ぎません。

保険診療で立派に治療結果を出しておられる先生が、現行の保険診療の点数に対し「もう少し高く評価してくれてもエエんちゃう?」と不満を抱かれても当然でありましょう。私もそう考えることがあります。

もし第三者に訳知り顔で「(そのような姿勢は)医療人にあるまじき自己犠牲の精神の放擲である!」とか口を出されても私は苦笑いしかできません。どうぞご自身の赤ひげ先生をお探し下さい。もっとも、赤ひげ先生は保険診療ではなく患者の金銭負担がゼロに近い自費診療をされると思いますが。




本書の副題にある「10秒間の声かけ」は、本当に10秒で済みます
世の中にはキャッチーさ最優先で中身を伴わないタイトル詐欺のクソ本がビジネス新書界隈を中心に氾濫しているものですが、この本は違います。マジで10秒の声かけだからです。

タイトル通りに自費診療が「激増」するかどうかは先生方の医院次第かな…とも思いますが、少なくとも当院のような保険診療が99.5%の歯科医院にとっては月にひとつでも自費の冠が制約するなら「激増」の福音となるわけでありまして、タイトルに偽りなしなのであります。

ネタバレになるので具体的なことは書けません。コストパフォーマンスがハイパー高い自己投資だと思って本書を購入して読んでみましょう。本のお値段3700円(税別)は直ぐに回収できます。いえ本当、その通り。私でもできました。エヘン。


私見ですが本書は、自費診療バリバリの先生向けではなく、保険診療であれ患者さんに良い治療を提供したいと考え日々の歯科診療に従事しておられる実直な先生に向けられた応援のように思います。そのような先生こそ、本書に書かれている手法がストレートに発揮されるようになっているからです。たとえ自費診療の提案が断られても、いつもどおり笑顔で実直に保険診療の治療を完遂することでしょう。そういう先生って本当に格好いいし、なにより患者さんからも信頼されるので、本書の手法がダイレクトに利くことになるのです。

さあ、腕を磨こう!

posted by ぎゅんた at 21:09| Comment(0) | 書籍など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月15日

(書籍紹介)『またまた ホンマ堪忍やで、歯科個別指導 PART2 〜生活保護編〜』



感想
大阪は、怖いなあ……(偏見)


ところで、生活保護の患者さんの受け入れは当院では行っていません。
父が過去に「指定医療機関」の申請を取り下げたからです。

なにが理由で取り下げたのかは黙して語ってくれませんが、なんというかまあ、推察できるところはあります。この曖昧模糊とした心理は、医療従事者側から生活保護の患者さんを一面的に捉えるところに存在する偏見と実体験が入り混じった独特のものです。

私は過去に勤務先で生活保護の患者さんの診療に幾度も携わりましたが、妙な体験もしませんでしたし、さしたる特別な印象も持っておりません。「それは、自分が住んでいる地域の住人の中の生活保護受給を患者として診なかったからだ」とさる方に指摘され、あ、それもそうだわと膝を打ったものです。地域に根ざし、逃げも隠れもできない田舎に居を構えて診療している責任ある立場ではなかったからです。

確たる真偽は確認していませんが、最近は「指定医療期機関」の申請をしないか、返上する歯科医院が多いようです。この理由も、まあ、なんとなくだが分かります。

私自身は、指定医療機関になることは開業歯科医師ができる社会貢献のひとつだろうと思っていますし、申請をしたいと考えているのですが、父が首を縦に振らないので頓挫しています。黙して語りませんが、思うところがあってのことだと理解できますし、その意思を尊重しているところです。

というと格好いいですが、実のところは、ちょっと経営や台所事情に関わってくる微妙な題材を膝を交えて懇々と話し合いをすると、手が出る足は出る棍棒で殴りかかるの様相を呈しかねないのが同業自営業親子経営スタイルの面倒臭いところでありますゆえ、余計な殺し合いは避けるための妥協にすぎません。父が完全に引退したら申請することになりそうです。つっても、なんだかんだ元気そうだし、いつになることやら。



というわけで本書では、生活保護の患者さんの個別指導についてが解説されています。

アホくさいことなんぞ笑い飛ばせばエエんや!という著者の熱い意気を感じられる意図はすぐに分かりますが、それでもちょっと下品すぎです……。婚活中の身で、意中の人との初デートの待ち合わせ場所に『すたみな太郎』を選定するぐらいの飛ばしっぷり。いや私の実体験ですけどね。来てくれなかったので一人フードファイトして帰った記憶。そんな私ですが、今は嫁と子供がいる。そういうことです。ガハハ


好き嫌いが分かれるだろうし、単純に他人に薦めにくい内容になっています。各章の最後のコラムとか真面目なんですけどね。いやはや困った。

せっかくだから俺は、この本に書いてあることを実行するし、推しておくぜ。
 
うーんグダグダ
posted by ぎゅんた at 23:30| Comment(0) | 書籍など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

歯科医が所有する専門書の行方は


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断捨離という言葉が流行して久しいが、現代語然としているところをみるに世間に受け入れられた概念とみることができる。コトバンクには「モノへの執着を捨て不要なモノを減らすことにより、生活の質の向上・心の平穏・運気向上などを得ようとする考え方のこと」とある。

収集の対象物でもないのに、案外に人は色々なものをパーソナルスペースに溜め込んでしまう習性があるようだ。「思い切って捨ててみる」ことは、思いもがけない幸福に直結することがある。自らが溜め込んでしまうことが、肉体や精神を気づかない間に拘束しているのである。ストレスだといえる。

『捨てる旅 精神科医の[蒸発]ノートから』(中沢正夫・著)のプロローグに、ストレスに対処する最良の方法とは、

「時々、日常性をブレークすること」、そして、「現場から物理的に離れるころ」である。離れることによって自分が見えてくる。自分と職場との関係、自分の価値観は今、どこで、何とぶつかって圧迫されているのか・・・・・・などが見えてくる。こうして人は、再び、自分を取り戻し歩き始めることができるのである。

と記述されている。そして、「現場を離れる最良の方法が「旅に出ること」であるのはいうまでもない。」と続く。

断捨離は旅ではないが、所有物と物理的に離れる意味では同じであろう。そして、捨てることで何かが見えてくることが期待できる。ものを捨てることでストレスに対処する概念といえよう。

我々歯科医は、どの年代の先生もそうであろうが、「歯科医は医療人であり、生涯にわたって学び続けなくてはならない職業だゾ」と繰り返し言われてきた。学ぶ姿勢を失ったら、現場を退かなくてはならないとも。生涯にわたって学び続けよ、とは、格好良く言えば職業人として研鑽を積み続けることである。これは日々の臨床に真摯に向かい合い、常にフィードバックすることで専門家としての能力向上に邁進することであり、知りえておくべき知識のアップデート、新たな治療技術の導入、勉強会への出席なども含まれる。そして、専門書の購入も該当する。歯科医は(これからは分からないけれども)結局のところは開業医として、地域社会の口腔の健康に寄与する存在となる。学術第一線の大学から距離を置くことになるのが普通であり、知識のアップデートは、基本的には専門書に頼る側面を持ち合わせる。興味のある分野の勉強会やセミナーがあっても、日程や金銭的な制約があるから、どれでも好きに参加できるものではない。専門書を通して学ぶ姿勢は残っている。学生時代の教科書であっても、いま読み返してみると利益があるものだ。

専門書は書物であり食べ物でないから、手放さない限り手元に残り続ける。大きく、重く、かさばるものが多いから、次第に書架を圧迫しはじめる。「書痴」という言葉が在るように、書物は、購入することと所有することに快感を伴う。壁一面が書架になるよう改築したり、書物の重さで床が抜けたという話もきく。そこまでいかないまでも、気づいたら際限なく本が増えていた、という人は多い。

専門書を買い漁っている歯科医師は少数派であろうけれど、専門書を全く購入しない不勉強な歯科医師もまた少数派である。多かれ少なかれ、歯科医師は多数の専門書を所有しているし、いってみれば少なくない費用を勉強のために投資してきたことを意味する。その一方で、気に入らない本(けれども、手元に置いてある)やいずれ読むつもりで購入した「積読」本の存在に気がついている。

手元に残しておきたい本は良いのである。残しておく必要がないと判断している本をどうするかが課題なのだ。まかりなりにも専門書だから、廃品回収に出すのは心情的に憚られる。さりとてブッ◯オフに持っていっても「値段はつきませんがこちらで処分しておきますか?」の悲劇査定は必定。漠然と他人にプレゼントしたところで、本というのは読む気がなければ決して紐を解かないものだから、読まれないまま放置されるのが関の山。理想的なのは、明確に欲っする気持ちをもつ先生と譲渡し合うことであろう。こうしたオープンな親交を私は無駄がなくて好ましく思うが、歯科医の業界ではどうもご法度のようで杳として知れない。

結局、書架の肥やし及びインテリアの役目を果たすか、埃を被ったまま放置されるか、なんとなく廃品回収で捨てられるか、小銭程度にでもなればと専門書買取専門の業者に送るか、ネットオークションに出品するかの運命を辿るのである。勿論、今は内容が理解できないだけで、自分が成長すれば、内容を理解できるようになる(手元に残したい本に昇格する)可能性もあるのだが、どう考えてもそうなりそうもない本は除外される。

思えば、専門書は歯科ディーラーさんの「努力」でディスカウントされない。情報量に対して「安い」場合がほとんどであるが、そうでない場合もある。購入したからには責任をもって有効に活用したいものだが、人間関係と同じで波長が合わない本もある。そうした自分にとって「いらない子」でも、他人にとっては「欲しい子」だったりする。本は、可愛がってくれる持ち主の手元にあり続けることが望ましいと思う。

私の手元にある「いらない子」たちはどうするべきであろうか。現実的には専門書買取専門業者の手に委ねるべきであろう。けれども、見積もりやらなにやらが面倒で頓挫したままである。もっと私が能動的であればネットオークション等に出品して欲しい先生にお譲りしているだろうが、気分的に自分可愛さの億劫さが先にたつのでできそうもない。母校の図書館に寄贈という名の押し付けをするべきだろうか。
 
posted by ぎゅんた at 15:29| Comment(2) | 書籍など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする