2024年02月25日

囲碁とか、どうやって勝つのこれ

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か、勝てねえ〜


百田尚樹『幻庵』を読み、思うところあって囲碁を打ち始めました。
碁盤上に石を打ち合うことで意識がまるで夢の中に入り込むような幻想的な体験ができるというのは魅力的だと思ったからです。

私は囲碁はおろか将棋すら満足にさせないし詩も詠まないし茶道もしらない。社会生活上の礼儀作法にしても疑問符がつくような振る舞いをする、およそ文化的素養のない凡夫。囲碁は歴史的なボードゲームであろうけれど、私はボードゲームなどオセロが少しできるくらいで、カードゲームとかポーカー麻雀とか、そういうのも全く遊ぶことができない。まことに不調法なのであります。

元来が無責任で能天気なので、そんなの知らんくとも生きていけるわい、娯楽ゲームを嗜めない身といえ世はこともなし、と虚勢を張って生きてきました。ただ、40も過ぎたおっさんの心にはコンプレックスが鬱屈しているのも事実でありまして、良い機会だから囲碁のお稽古だと思いねえ、と囲碁の本を手に取り、日本棋院監修のアプリ「囲碁であそぼ!」のインストールを機に囲碁に触れ始めました。自分自身の文化度が上がったような気がして嬉しい気持ちになりました。囲碁は、基本的なルールを理解することは難しくありません。ひとまず囲碁は、すぐに打てるようになります。



向き不向き、才能の有無など気にしない
囲碁が強くなるには、なにより子どものころから囲碁に触れる必要があるとか、囲碁にはハッキリと向き不向きがある(向かない人は遊ばない方が良い)とか、そういう評価が巷間にあるようです。多分、本当のことなのでしょう。しかし私はプロ棋士になるような強さを得ようとは思わないし、向いていないにしても囲碁の楽しさを味わえるほどには嗜めることはできるはずだと考えました。囲碁の向き不向きとは、プロ棋士になれる人物かどうか、ぐらいの、高度な領域での選別さをいうに違いないからです。そんなに敷居が高いゲームだったら、囲碁はとっくに廃れて、歴史から姿を消しているでしょう。

さて『囲碁であそぼ!』は対局は九路盤までで、十三路盤では対局できない仕様っぽいので物足りなさを感じました。本来の十九路盤は広すぎるので、まずは十三路盤で修行していきたいと考えたのです。

適当に探すと『みんなの囲碁』という無料アプリが見つかりました。これはFireOSでも動くので、出番がなくて暇を持て余しているFireHD10有効活用ができます。対局相手も対人とCPUが可能です。残念ながらオンライン対戦はできません。でも、これで十分です。CPUの棋力は14級〜三段まで選べます。囲碁の棋力がどのようなものかは皆目分かりませんが、挑戦しがいのある難易度設定がなされている、とはいえましょう。よおーし、やってやろうじゃねえか!



結果
13路盤コミ6目半で棋力14級のCPU相手に100戦100敗しました。私は胃が痛くなった。というか負け続けるストレスで髪の毛が落ちました。あまりの勝てなさ具合に激昂してFireHDを机に叩きつけてぶっ壊してしまう寸前でした。こんなUncontrollableな怒りを感じたのは歯科医師国家試験の勉強に追い詰められて精神的に不安定だったころ以来のことです。



なぜ勝てないのか?どうすれば良いのか?
囲碁は勝負事なので勝てば嬉しいし負ければ悔しいものです。負けて怒るのは、それだけ真面目に勝利を目指して打ち込んだから…とはいえ、目の前の勝ち負けに拘泥するのは上達のことを考えれば望ましい姿勢とは言えません。投資もそうで、勝ち負けで考えるのは非常に短絡的で底が浅い仕草です。毛並みの悪い投資家というやつです(勝ち負けにこだわるのはギャンブラーであり投機家であって投資家ではない)。

囲碁は大局観という人として重要な視点を育てるゲームである、と本に書いてありました。戦略的な思考を育てるこで、将来の展望を見据えながら複雑な問題を処理することができるようになる、と。勝てても負けても、なぜ勝てたのかを確認したり、勝敗の要因分析をしたり、よりスマートな打ち方はなかったのか考究することが前向きで良いものです。そうした知的な振り返りは、自身の成長を促したり成長を実感できることにつながるので、より囲碁を打つことが面白くなるのです。勝ち負けよりも、成長を楽しむ姿勢が良いと言われる所以です。


さて100敗した私は現時点で後顧するに、成長なんて微塵も感じておりません。
囲碁の面白さってなんだよ、一番易しい対戦相手にまるで勝てないのに成長もクソもねえよって感じです。


自分なりに、なぜ負けるのか、どうやったらCPU14級に勝てるようになるかを分析すれば──

1.相手の石を囲んで取ることに夢中になって、結局は自分の石を易々と取られる状況になっている
2.最終的に地の多い方が勝つので、広い陣地を確保しようと石をつなげていくが、打ち方のどこかに誤りがたくさんあって局面を覆される
3.定石をしらない(基本的な棋力がない)
4.詰め碁を解いていない(基本的な棋力がない)
5.石の生き死にを理解できていない
※どんな初心者向けの解説にもあるような「相手が離して打ったら、自分も離して打つ」「自分の石にツケてきたらハネかノビ」は遵守して打っている(つもり)

おそらく、こんなところだと思う。

ただ、1-5がそこそこできるなら、CPU10級であろうと負けないのではなかろうか?
ひょっとして『みんなの囲碁』のCPUが強すぎるのではなかろうか?
囲碁に覚えのある先生は、よかったら試して欲しいところです。

「え?こんな弱い相手にどうやって負けることができるんだ?ぎゅんた先生には脳みそがないことが明確になった。失望しました。ブログ読者やめます」となっても、それは私の不徳の致すところ也。ぐぬぬ



そんなわけで、私は囲碁が打てる人から上達のヒントが欲しいのである
本来は囲碁打ちの人に教えを請うたり囲碁教室に参加したり碁会所にいって指導してもらったりするのでありましょうが、そのような環境にないのです。当面は独学でCPU相手に挑むしかない。

患者さんに囲碁打ちがいれば嬉しいが、ドクターが患者に「あなたは囲碁が打てますか?」と聞くのは度を超えた振る舞いに思える。待合室に碁盤と碁石を置いておけば、患者同士が対局を始めだして解決の糸口になるかもしれないが、接触感染にうるさい昨今なのでアイデアはお蔵入り。

実物の碁盤と碁石を用意して、過去の名人たちの棋譜をひたすら並べまくって体当たりで打ち筋を理解していくのが一番よい稽古かもしれない。盤上で詰め碁問題を解くのもよさそうだ、和室に置くと様になる図でもある。


高級囲碁盤セット
高級すぎる値段に泣いた
 
posted by ぎゅんた at 17:47| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月22日

「無秩序な部分を省くことにより、我々は秩序を構築する(ウィリアム・ジェームズ)」


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カリソルブなんて商品もあったが、俺には使いこなせなかった


日々の歯科治療の中で楽しいことは?と訊かれた時に、あなたは何を答えるだろうか?

ダイレクトボンディングとか智歯の抜歯とかフラップオペ、などと答える先生が多そうな気がする。伝達麻酔を効かせるのが堪らないデュフフ…と答える先生もおられそうだ。縁上歯石を超音波スケーラーで弾き飛ばすのが好き、と答える先生だっておられよう。

果たして私はというと、う蝕象牙質をエキスカで除去しているときに楽しさを覚える。とくにマニアックには、あたらないだろう。悪いものを取っている、という心理的な充足感もさることながら、う蝕象牙質の除去が進むにつれてその感触が変化していくのが楽しいのだ。感染象牙質部分は触れても痛みを生じないため、無麻酔で処置できるのも良い感じだ。


上皮組織に相当する外胚葉由来のエナメル質を超えて中胚葉由来の象牙質に達して生じている「齲窩」は言ってみれば潰瘍であるが、細菌修飾を排除しても自然回復することはない。感染した有機質(infected-dentin)を徹底除去して窩洞を形成し、人工材料で実質欠損を補填して歯の形態と機能の回復を図らなくてはならない。

いまはどうかは知らないが、かつては、象牙質のレジン接着時の樹脂含浸層を人工エナメル質として扱っていたものである。たしかに、親水性の象牙質が疎水性のレジンが含浸して置換されれば、人工的なエナメル質といえなくもない。私は、こういう考え方は好きである。そのために、除去すべき感染象牙質を除去する地道な作業に喜びが生まれるのだ。う蝕象牙質を徹底除去して混濁層以降の無菌的な象牙質で整った窩洞を用意するのは気持ちが良い。髄腔内をヒポクロで満たす(Hypo-bath)ことで、そのケミカルな洗浄を終えた後に明るくなる髄腔も気持ちが良い。これでいい仕事ができる、そんな気にさせてくれる。


さて象牙質の樹脂含浸層は、その最底部に接着性モノマーが浸透しきれていない脱灰象牙質が残地するという懸念があったが、いまは解決したのだろうか。接着歯学界隈から離れてしまうと、もう新製品との出会いをのぞいてトレンドについていけなくなる。


この記事を書いてて思い出したが、医局での症例発表会か勉強会かの折に、スライドに「カリエスデストロイヤー:感染象牙質を無菌化することで万が一の取り残しにも対応するう蝕検知液」みたいな捏造アイテムを写したことがある。しかし、誰も笑ってはくれなかった。というか、無反応だった。薄暗い医局内部は静まり返ってしまった。若い無能な医局員が、アカデミックな場で唐突にウケ狙いを仕込むべきではないということを私は学んだのだった。

それから10年以上は経った。私はいまでも人前でプレゼンするときは唐突なギャグをブチ込んでしまう。汚れ芸人気質なのではなく、笑わせようと勝負に出たけどウケなかったという冷たい現実が妙にクセになるのである。マゾなのかもしらん。

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2022年10月12日

献血について


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いつのまにかアプリが出ていた

始めて献血に行ったのは大学一年生の時である。
献血を通じて社会貢献をしようというような崇高な精神があったわけではない。

元来自分は血を見るのも苦手だった。けれど、歯医者を目指す以上、いつまでも血の苦手意識があってもいけない。献血することで、少しは血に慣れるだろう、と考えてのことであった。忘れもしない、札幌駅近くのアスティ献血ルーム。優しいナースのお姉様方のおかげですぐに血に慣れることができた。

それからは、献血ルームの近くにいく用事があったり、自動車運転免許センターやら学祭やらで献血バスが来ている際、可能であれば献血をしてきた。献血マニアではないので、まだ通算で20回ほどでしかないのだが、自分の血液が献血に貢献できるうちは続けていきたい。

また治療上必要であるとはいえ、歯科医師は患者の身体に注射針をルーチンに刺しまくっている存在でもあるから、別に贖罪の意図もないが、自分も身体に針を刺されるという感覚を常に養っておくべきとは考える。

献血をすることで、なにか大きな名誉やインセンティブが得られるものではない。昔は図書券がもらえたらしいが、売血行為が横行して廃止になったそうな。その代わりでもないが、献血ルームでは軽食をつまめたりドリンクのサービスがあるし、小さな洗剤をもらえたりする(今もあるよね?)。採血中は快適なベッドでドリンクを片手に雑誌を読んだりテレビの視聴ができたりと至れり尽くせりである。

その意味ではバス献血はちょっと不遇で、ドリンクはもらえるが飲み放題とはいえない。また、広いとはいえないバスの中での採血になるので快適度も落ちる。あまり要求するのも不躾な話であるが、この辺を心得ている人は献血ルームで献血をすることを希望するのである。
posted by ぎゅんた at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年06月29日

現役の歯学部生に伝えたいことがあるならば


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タイトルを書いて気づいたが、メチャクチャ上から目線である。
お前なんぞが俺たちに何を言いてえんだよえ──っ、と言われそうだし、実際に私が歯学部生だった時代に、開業医が自分たちに向けて話しをしてくれる機会があったとしても食指が動いたとは思えない。大学とは不思議な空気がある組織で、そこに属していると開業医というのは歯科医師として下の位置にあるように錯覚できる場所でもある。

例えば、解剖学の実習で開業医の先生が見学に来られていても、学生はその先生に特別に敬意を示すことはない。今更なにを学びに来たんだ?ぐらいの意識かもしれない。私も当時、解剖学実習に見学に来られていた先生の姿をみて似たような感想を抱いた覚えがある。

お分かりのとおり、これはとんでもない思い違いである。
開業医の先生が見学に来られるというのは、臨床経験上、目で確認しておきたい解剖学的真理を実地で学びたい真摯な気持ちがあるからであり、そのような気持ちの湧く診療をされているからである。勿論、その先生が解剖学に対して思い入れがあるとか、ふと母校を訪れてみたい心境になったとか理由があるかもしれない。とはいえ、平日の診療や休診日に時間をさいて大学を訪れるために大学側に打診をするなどの手続きを踏むのは手間であり、思いつきで行動に移せるものではない。子どもへの説法のようで恐縮であるが、大学に来られた開業医の先生を軽く扱ってはいけない。敬意をもって接し、教えを乞うべきである。


のっけから道徳教育みたいになってしまった…
「そんなん当たり前やろ」と思われるかもしれない。けれども昨今は、現場で働いている人に敬意を示さない若い人が増えているように感じるので、あえて述べてみた次第である。



次に、私は英語の習熟を薦めたい。
歯学部生時代は、専門科目の勉強や国家試験の勉強を除いても、有り余る時間があるはずである。世の中の大学生の多くは、その時間を遊ぶかバイトにつぎ込むのが常である。それか、延々とスマホいじりをしている。スマホいじりはさておき、遊びやバイトも学生時代には重要だ。しかし、学生の本分が勉学にあることは論をまたない。しかし、私自身を含めて、学生時代を振り返って、本当に勉学に明け暮れただろうか?と考えると頷くことはできない。むしろ、あのときもっと勉強しておけばよかったと後悔するものである。

学生という、やる気さえあれば際限なく学べる身分から離れると、学びの大切さや学べる環境に身を浸していられることの幸福さに気づくものである。日銭を稼ぐ必要はなく(苦学生が増えた今は、バイトに明け暮れないといけない学生もいるかもしれないが)、大学には図書館があり、多数の知識人がいる。同期もまた、目的を同じくした学徒なのである。そのような環境で勉強をしないという行為はあり得ない。

現在進行形で学んでいる専門科目を予習したりするのは食指が動かないかもしれないが、歯学とは全く別系統の学問に打ち込んで良いのである。現実的なところでは語学であり、英語であろう。英語は、事実上の世界語になっているうえ日本語とは違って論理(ロジカル)そのもの言語だからである(日本語で論理的に考えるよりも、英語で考えた方が早くて効率が良い)。鍛えるのはスピーキングではなくリーディングである。論文だけでなく、あらゆる英文を苦労なく読んで理解できるようにしておきたい。ネットでは情報の多くが英文で提供されているので、リーディング能力が鍛えられていれば、ネットで英文に触れているだけでも英語の「勘」が失われずにすむ。還元すれば、英語の能力を維持する上でのメインテナンスの労力が小さくて済む。

近年、英語というとスピーキング偏重になっている傾向にあるが、私はそんなことは無いと思う。意味のある内容の英文を、意味を取り違えることなく正しく読み取ることのできるリーディング能力こそが優先されるべきだと思う。先述したが、英語というのは論理そのものであるから、扱えると貴方自身の論理的能力が底上げされる。論理的思考ができることは、生涯にわたって貴方の能力を様々な方向から底上げするパッシブな効果が得られる。たとえリーディング能力偏重であれ英語ができるなら、それは貴方の自信につながるだろうし、周りからの評価も高くなるだろう。なぜ、私は学生時代に英語を勉強しなかったんだ……と悔恨に生きている。

英語を勉強するに際して、教材は腐るほどある。
こと英文を読み下していく能力を鍛えるのであれば、それは大学入試での英語-下線部翻訳問題のような、英文の構造理解と文法解釈から内容を読み解くことのできる能力をいうものと思われる。要するに、英文読解である。従って、英文の読解の能力を鍛えようとするなら、大学入試対策系の、英文読解の問題集にあたるのが近道だろう。その中でも私は、古典的な名著として『英文標準問題精講(原の英票))』をオススメする。ああこれか、と思う人も多いだろう。内容的に古くさくて今の大学入試には不向きな教材と捉えられているが、別に受験が目的ではない。英文を正確に読み解ける力を身につけるために使用するのである。全国の書店でいまでも簡単に入手できる、ただし難易度は高い。格調の高い、複雑で意味を取りづらい名文ばかりである。

元々、英語が得意な人には読み応えのあるパッケージなのだろうが、そうでない人は難易度を下げて『基礎英文問題精講』にしよう。私のような英語劣等生にとっては、こちらでも十分に難しいが、なんとか断念しないで済んでいる難易度だ。こちらは現在、書店に改訂版が並んでいるが、改訂版は旧版の良さがスポイルされているので旧版を古本屋で調達することをオススメする。諸君らは高校生時代〜大学入試と英語を学び理解してきたはずだから、久しく英語に触れたとしても勘がすぐに戻るはずだ。せっかく学んできた英語を、受験が終わったからと封印してしまうのは能力の持ち腐れに他ならない。

言語も時代に合わせて表現は変わっていくものであるが文法は変わらない。また、知的階級が使うような、格調の高い英文の良さも損なわれることはない。将来的に英語の論文を読むだけでなく書くことになるかもしれないわけだから、学んでおくべきはブロークンではない、学術的に正しい英語であるべきだ。英文の作法を身につけるような感覚である。

自学の末、英文の読解に詰まってしまったら、大学には英語の講師がいるはずなので質問に行けばよい。教師や講師という、学生に教える側の人間は、熱意のある生徒のことが好きなので喜んで付き合ってくれるはずである。良書で英語を勉強し続けながら、ときおり専門家に質問して疑問を解消すると、驚くほど英語の能力が高くなる。ある程度のレベルに達すると、学術論文を読めるようになってくる。そうしたら、自分の興味のある分野の論文を読んでみよう。例えば解剖学が好きなら、解剖学の教室に足を運び、解剖学の面白い論文を読みたいのですけれどオススメはありませんか、とでも聞いてみよう。誰しも、自分なりのお気に入りの論文が何本かあったりするので、教えてくれるはずだ。

学生時代に目上の人や専門家と交流を持つことは、知的な刺激を受けるので、勉学のモチベーション上にも有益である。私は今でも、学生時代に病理学の教室に遊びに行って教授と話をしていた内容を懐かしく思い出すことができるし、読んでみたら?と紹介された南木佳士の『医学生』の読後感を思い出すこともできる。



続いて、金銭感覚の育成である。
感覚に言うと、貯金を始めてお金のありがたさを実感させていき、定期的に貯金をしていくことで自分の予想以上にお金が積み上がっていく体験をすることから始めるのである。貯金用の、ネット銀行の口座を開設しよう。

最近は若いうちから投資を進める向きがあるようだが、投資というのは、初心者は必ず損をする(その失敗とお金を失った蹉跌から自分の投資のスタイルを確立させていくプロセスをたどる)し、種銭ならぬ投資金も10万円単位でないと目立ってリターンもない。小遣い稼ぎにFXや仮想通貨を始めたりパチンコや宝くじ等に手を出すのは全く賢明ではない。

重要なのは、諸君らが歯科医師として働き始めてから大学に残るにせよ開業するにせよ勤務医として働き続けていくにせよ、手持ちに資産があることである。それが、どれほど大きな礎であるかを想像して欲しい。これから先の社会の経済状況がどうなるか私には何も行けないけれど、開業に必要な資金は上がり続けていくであろうし、銀行は金を貸してくれない。自分にかかった学費を取り戻していかなくてはならないし、人によっては奨学金の返済も必要だろう。今のうちから貯金を始めておくことは賢明である。

自分自身を振り返っても、学生のころは貯蓄や倹約が疎かになるものだ。そもそも、自分で稼いだお金で得た身分でなかったから、お金のありがたみ自体を理解できていなかったのだ。だから、休み時間に自販機で適当に飲み物を買っていたしし、丸善で無意に菓子類を買い求める。気分で文房具を買って紛失したりする。こうした、習慣的な緩い消費をラテマネーというが、総額で一体どれほどの額にのぼるものか、私は恐ろしくて計算する気にもならない。思い当たる人は、今すぐ改めるべきである(良い解決方法がある。買おうと思ったけれどもやめたお金を「つもり貯金」するのである)。

私立であれば、実習用器材を一式、購入するはずだ。その際、各々の機材の価格を確認して欲しい。どれだけ高価なものであるかを理解して欲しい。そして、大切にして欲しい。少なくともYDMのような名の通ったメーカーの器材は丈夫なので、大切に扱えば開業した後になっても使用できる耐久性がある。器材は決して紛失しないように管理し、乱暴に扱わないようにし、常に美しい状態で揃えておくことである

学生のロッカールームの一斉清掃で器具が破棄される場面があったら、使えそうなものをガメておくのも手である(盗むのではない。破棄されてしまう器具のサルベージである)。歯科用の器具器材とは、それほどに高価なものなのである。



最後に、国家試験への備えである。
恥ずかしながら、毎年の歯科医師国家試験を解くたびに、私は自信を喪失するのである。必要以上に、意地悪に難しいと思うからである。歯学部を卒業した者が、歯科医師として最低限必要な知識を有しているか確認することを目的とする試験として、相応しくないような妙な難易度の問題が混じっているように思う。歯科医師として不適格な傾向にある学生はOSCIIおよびCBTで篩い落とされているはずであるし、プレ国試たる卒業試験を突破しているのだから、歯科医師国家試験の受験者らは全て歯科医師の適性が保証されているはずだ。

私個人としては、貴重な若い人生を国家試験浪人で費やすのは気の毒だと思うので、国の歯科医師の数を調整したい意図も理解できるけれども、従前のような9割以上が合格できる難易度で良いと思うのである。歯科医師という職業に魅力を感じなければ、別の道に行ってよいのである。そうした自由は、あって然るべきだ。しかし国家試験に合格していなければ、そうした転向は全く現実的ではなくなってしまう。

不当に難易度の高い問題は、結局は受験者の多くが正当を引けない「クソ問」であるから、運が良かったら取れる問題ということにして、戦略として重要なのは正答率の高い問題を取りこぼさないことであろう。従って、歯科医学全般の基礎的な事項を広範に正しく理解して、各科目との有機的な知識的繋がりを構築しておくことが求められる。国家試験の勉強を6年生になってから始める者は相当に優秀な学生か大物だけである。まだ国家試験について曖昧模糊としたイメージしかない学年の頃から少しずつ備えておくのが正しいだろう。

個人的なオススメとしては、適当な国家試験の過去問集を用意して、スキマ時間や電車での移動中に解いていくことである。私は四年生のときに、この方法で口腔外科の問題集を解きまくっていたが、5年生の当院実習時も模擬試験でも口腔外科に関しては優秀な成績だった(それ以外はお察し下さい)。試験問題を解きまくっていると、国家試験のあの独特の問題の風体に慣れてくるし、なにが重要かが分かってくるのが大きい。国家試験の問題集は図書館に備えてあるはずだから、適当にペラペラめくってみて、調整できそうな科目あたりから始めて行こう。そして、問題が解けるようになってくると、頭の中でバラバラだった各分野の知識が有機結合しはじめてくることに気づくと思う。そのレベルになったら、同じようなレベルの友人と口頭でいいので問題を出し合って答え合わせをしていこう。こうすると記憶に残りやすいので効率が良いのである。

国家試験で暗記しなくてはならない知識の量は膨大なので、少しづつの積み重ねを利用していかないと間に合わない。よほど優秀な頭脳の持ち主なら、一気に詰め込むことが出来るかもしれないが、少なくとも私には無理だった。過去問集を解き漁り、暗記しにくい点や重要箇所はノートに書く殴って体当たりで覚えた。試験直前にさっと見直せる個人用の知識確認集も自作したものである。
 
posted by ぎゅんた at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月26日

思うところあって、遅まきながら英語の勉強を細々と続けている

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語学の勉強は、エンドの治療と同じで様々なアプローチや手法があって、なにをどうしたらいいものか迷ってしまう。

書店に足を運び、語学学習のコーナーに行くと、「英語はコレでOK!」とか「◯◯式英語勉強法でペラペラ」とか「英語はインド式に学べ」とか、英語のハウツー本が大量に陳列されていて目眩がする。これだけたくさんあるということは、英語のハウツー本は売れ筋商品なのだろうと思う。英語を習得したいと思う日本人や、英語にコンプレックスを抱いている日本人が多いからだろう。だが結果として「これだけの優れたノウハウがあったので日本国民は英語が堪能になりました」という帰結には至らず「英語の学習法についてのみやたら詳しい日本人」が増えているだけで、日本人の英語のレベルは大きく向上していない気がする。そのうちAIがなんとかするだろう、という趨勢もあるし、英語に関してはもうなんでもアリの世界に思える。学びたい人は学べば良いのである。しかし、どうやって……


私のお気に入りの本に『英語達人列伝』がある。実在した偉人たちの英語への姿勢から、多読こそが英語取得の鍵であると述べる、知的面白さのあるエピソードまじりに過去の偉人について知ることができる名著である。英語を多読すれば到達できる境地がある。その説得力がすごいのである。

本書に倣って、私は英文の多読を始めた。
手当たり次第に読める題材がなかったので、ひとまずエンドの論文をネットで探して印刷して読むことにした。そう、私は英語の論文が読めるようになれればよいのだ。「英語ができる=ペラペラ」という図式は、少なくとも私の念頭にはない。スピーキングもライティングもリスニングも不要。ただリーディングができればよいのである。ここはシンプルに定まった。だから、本書を読んで膝を打つところが多かった。とにかく読めばよいのだ!

そして2年経ったが、相も変わらず私は英語がサッパリできない。肝心の英語論文のリーディングのスキルが向上しただろうか?と自問しても、うーん少しぐらいは……と自信は毛ほどもない。情けないことこの上ない。つまり、私は英語の論文を「読めて」はいなかったのだ。その実、読んでいる振りをする経験を積んでいただけなのだ。志の甘さが目的を手段とすり替えてしまう。とかく未熟者が辿りがちな陥穽である。英文の上を目が滑っているだけでは読んでいることにはならない。主語と述語を違えず、英文に込められている意味を拾い上げて理解できていなくてはならない。無理やりに読み進め続けることで読めた気になっていてはいけない。

私にとっての導かれる答えは簡単だ。「英文の意味を読み取れる」ただそれだけである。
とすると、センテンスの塊たる英文の文章、そこに込められた文意を読み取れているかどうかからスタートしていかなくてはならない。文意をまともに拾えもしないのに英文をただ読んでいても、決して「読める」ようにはならないのだ。


これを鍛えるためにはどうしたら良いのであろうか?
私は、大学入試用の英語の長文教材に当たることにした。内容的にも学術系が多いだろうし、全訳が載っているからである。全てのセンテンスを、満足に読めているのなら解説にある全訳と照会する作業を通じて文意を読み取る能力を力づくで鍛えていけると考えたからである。なにしろ、読み当たってきた論文は日本語訳がないので、自分が好き勝手に読んでいても正誤および文意整合のフィードバックがとれない。


さて書店に赴き大学受験の参考書の一角に立って「英語長文」系を手に取ってみたが、どいつもこいつも難しすぎて私はすぐに棚に戻した。中学生用の英語長文練習ドリルなら解けたが、内容の水準が低すぎても手応えが薄い。そこで「英語長文-入門」系を探してみると、価格的にも、難易度的にも、テキストのサイズ的にも、自分に相応しいのがあったのでそれを購入した。


勉強にあたってのルールとして「最低でも1日1題を解く」ことにして、毎日、継続して英語に触れることにしている。私は受験生ではないので、時間と余裕だけは確保されているから精神的には楽なものだ。続けていくことで運良く英語の勉強が習慣になってしまえば、更に楽になる。英文を読んで頭のなかで日本語訳にしていく作業と全訳を用いた答え合わせをひたすら繰り返していけば、牛歩の劣等生であっても、成長するだろう。


かつてゲーテが「外国語をひとつも知らないものは、母国語をも本来は知らない」と述べたように、第二言語を学んで理解していけば、自分の思考を司る母国語を相対的に扱えるようになるはずである。特に英語は日本語に比べて論理的なので、英文に触れ、文意を読み取ることを繰り返すことは、その行為そのものが丁寧で論理的な思考の訓練になるはずだ。いきおい、自分の思考をより意識的に扱えるようになるだろうし、潜在的な思考の自動プロセスが強化されることから、自分でも思いもよらない概念的発想が得られるかもしれない。

こんな下心をもって英語を勉強するのは邪道かもしれないけれど、せっかく英語を学ぶなら自分の思考力の向上も狙えるかも、ぐらい考えた方がモチベーションにもなるってもんよ。

posted by ぎゅんた at 08:23| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする