これは、いよいよ人生も佳境に入ったのだろうと前向きに考えることができる。いろいろなことがあった。しかしまだ、やりたいことは残っている。歯科治療はまだその深淵の入り口にも到達していない。歯科医業とは別にやりたいことも残されている(手を付けていないだけだ)。
私の歯科医師人生は、母校の研修医として始まった。
自分の初めての患者さんは、歯学部の(要は後輩)学生であった。奥歯の痛みが主訴で、はたして上顎智歯のう蝕が原因と思われ抜歯とあいなった。撮影したオルソパントモ写真に歯牙種と思われる所見があり「初めての患者でこれは、君は持ってるねえ」と口腔外科の指導医に言われたことを思い出す。主義的に難しい抜歯ではなかったが、なにせすべてが初めての研修医にとっては診断から説明から施術からすべてが緊張の連続で卒倒しそうであった。浸麻と歯周靱帯の切断までは問題なかったが、ヘーベルを近心頬側隅角にかけて脱臼させるところがうまくいかず指導医と交代した記憶がある。
それからも担当する患者が口腔外科の症例になることが続いて、口腔外科の指導医から「縁があるんじゃない?ウチに来なよ」と誘われたものであった。
悪い気はしなかったし、学生時代から口腔外科は好きだったので食指が動いたが、その一方、私は将来的に実家に帰って親の跡を継ぐGPになると考えていたことと接着歯学に強い興味があったことがあって思惟逡巡した。また、口腔外科の授業で口腔外科の講師自身が「口腔外科専門の病院を開業しても食っていけません」と述べていたことや、「口腔外科に行く連中というのは、聴診器をぶら下げて病棟を歩きたいだけ」とか「医者からバカにされてる連中」という陰口を聞いていたこともネガティブ要因としてあった。
今にして思えば、将来はなるようになるし、ネガティブ要因も「所詮は第三者の戯言よ」と聞き流して、口腔外科の専門医を目指して粉骨砕身、修行を頑張ればよかったのだ。平凡なGPになって分かったのだが、口腔外科の知識と技術に長けた歯科医ほど地域から望まれる人材もないのだ。
もっとも、自分の選択してきた進路に後悔の念はさしてない。
ただ、格好つけて言えば口腔外科に行かなかったのは若さゆえの蹉跌というやつで、本当のところは私に決断力がなかっただけだ。
大鐘稔彦の名著『外科医と「盲腸」』に、外科医の世界では「外科はアッペに始まりアッペに終わる」という教訓が語り継がれているというくだりがある。同じように、口腔外科にも「口腔外科は抜歯に始まり抜歯に終わる」という教訓がある。
外科医であればアッペ(虫垂炎)がそうだが、口腔外科医にとっては抜歯の診断からリスク把握、処置の遂行、適切な術式の選択と施術、誤診時の対応からエラーを起こした際のリカバリーに至るまで、そのすべてに対応できるようになればまず一人前である、という意味が透けてくる。箴言のように思える。
私自身は抜歯術に対して得意でも不得意でもないといったところだし、智歯の抜歯にしても手に余る難症例でなければ紹介せず自院で抜歯するようにしている。抜歯の秘訣は、まず第一によく効く局所麻酔であると考える。これは臨床的には「痛くない浸麻」というところでは半分正解であり、患者に無用な不安や緊張を抱かせない心理コントロールから確実な伝達麻酔の駆使をして及第点に及ぶと考えている。多くの歯科医師が考えておられる通り、「痛くない抜歯」とは言葉にすると簡単でも、実際は奥深く難しい。似たようなケースであれども同じ症例はひとつもない。
こういうこともあって、私は完ぺきに満足のいく上顎智歯抜歯ができたら、それこそ自分の歯科医師の最後の仕事にしてもいいと考えている。多分にロマンチストかもしれないが、初めての症例が上顎智歯抜歯であったのだから終わりもまた上顎智歯抜歯であってよいだろう。
簡単に抜けましたよ。多少の出血もありましたが今は止まっていますから安心してください、と患者の手を取って終わりを迎えられればいうことはない。『なみだ坂診療所』の織田鈴香の最後の患者が膝小僧を擦り剝いて泣いている女の子であり、『ER緊急救命室』のグリーン先生の最後の患者がトゲが指に刺さった女の子であったように。
グリーン先生はきっと、女の子の指のトゲを抜いた瞬間に思い出したのだ。かつて愛娘のレイチェルも、指に刺さったトゲを自分が抜いたことがあったと。だから、医師としての自分に別れを告げて残りの人生をレイチェルのために使う父親になること決心したのだと思う。そこには、曇りのない悟りがある。
学生時代、歯学概論の時間に「患者とは、心に櫛が刺さった人のことである」とならった。医者は、病を憎み患者を愛せよともならった。実際の患者は、わがままでスケベで指示を聞かず我儘で無礼さを兼ね備えていたりする、何のことはない我々歯科医師とまったく同じ人間であったりする。それでも歯科医院を訪れる患者は、歯痛をはじめとする生活の痛みを心に刺している人たちだ。医療の根源は手当てにあるときいたことがある。苦しみ煩悶する人に寄り添い、患部に手を当て苦しみを分かち合う心に癒しがあるのだと。病を抱える人のそばで訴えを聞き、安心させて、手を添えることであると。
歯科医師も長くやってると仕事への慣れがでてきて、望まれないアイデンティティに染まってしまうものだ。せっかちで、話を聞かず、怒りっぽく、損得勘定ばかりがはたらき、とかく独りよがりな歯医者になる。私も、そうだ。でも、これは良くないことだとわかっている。乱れた心理に整合性を与えようとアレコレ思索しても解決することはない。バラバラになっている部品を箱に入れてシェイクしても決して元には戻らない。臨床の場で自分で解決するしかない。最後の患者はまだまだ当分、先の話になりそうだ。