2024年01月22日
「無秩序な部分を省くことにより、我々は秩序を構築する(ウィリアム・ジェームズ)」
日々の歯科治療の中で楽しいことは?と訊かれた時に、あなたは何を答えるだろうか?
ダイレクトボンディングとか智歯の抜歯とかフラップオペ、などと答える先生が多そうな気がする。伝達麻酔を効かせるのが堪らないデュフフ…と答える先生もおられそうだ。縁上歯石を超音波スケーラーで弾き飛ばすのが好き、と答える先生だっておられよう。
果たして私はというと、う蝕象牙質をエキスカで除去しているときに楽しさを覚える。とくにマニアックには、あたらないだろう。悪いものを取っている、という心理的な充足感もさることながら、う蝕象牙質の除去が進むにつれてその感触が変化していくのが楽しいのだ。感染象牙質部分は触れても痛みを生じないため、無麻酔で処置できるのも良い感じだ。
上皮組織に相当する外胚葉由来のエナメル質を超えて中胚葉由来の象牙質に達して生じている「齲窩」は言ってみれば潰瘍であるが、細菌修飾を排除しても自然回復することはない。感染した有機質(infected-dentin)を徹底除去して窩洞を形成し、人工材料で実質欠損を補填して歯の形態と機能の回復を図らなくてはならない。
いまはどうかは知らないが、かつては、象牙質のレジン接着時の樹脂含浸層を人工エナメル質として扱っていたものである。たしかに、親水性の象牙質が疎水性のレジンが含浸して置換されれば、人工的なエナメル質といえなくもない。私は、こういう考え方は好きである。そのために、除去すべき感染象牙質を除去する地道な作業に喜びが生まれるのだ。う蝕象牙質を徹底除去して混濁層以降の無菌的な象牙質で整った窩洞を用意するのは気持ちが良い。髄腔内をヒポクロで満たす(Hypo-bath)ことで、そのケミカルな洗浄を終えた後に明るくなる髄腔も気持ちが良い。これでいい仕事ができる、そんな気にさせてくれる。
さて象牙質の樹脂含浸層は、その最底部に接着性モノマーが浸透しきれていない脱灰象牙質が残地するという懸念があったが、いまは解決したのだろうか。接着歯学界隈から離れてしまうと、もう新製品との出会いをのぞいてトレンドについていけなくなる。
この記事を書いてて思い出したが、医局での症例発表会か勉強会かの折に、スライドに「カリエスデストロイヤー:感染象牙質を無菌化することで万が一の取り残しにも対応するう蝕検知液」みたいな捏造アイテムを写したことがある。しかし、誰も笑ってはくれなかった。というか、無反応だった。薄暗い医局内部は静まり返ってしまった。若い無能な医局員が、アカデミックな場で唐突にウケ狙いを仕込むべきではないということを私は学んだのだった。
それから10年以上は経った。私はいまでも人前でプレゼンするときは唐突なギャグをブチ込んでしまう。汚れ芸人気質なのではなく、笑わせようと勝負に出たけどウケなかったという冷たい現実が妙にクセになるのである。マゾなのかもしらん。
2024年01月12日
歯肉癌 carcinoma of the gingiva
口腔病理学の講義だったと思うが、「(この教室にいるみんなが歯科医師になったとして)半分の諸君は生涯に一例はなんらかの口腔癌に遭遇する」と聞いた覚えがある。歯科医が口腔癌に遭遇するのは、そのぐらいの確率であるという例えである。交通事故よりは低い確率、といったところだろうか。「遭遇率は決して高くはない。されど決して無理できない確率」のように思えるし、そういうニュアンスを伝えたいのであろう。つまりは、歯科治療の担い手となり、患者の口腔内を覗く身分になるのであれば、口腔癌というものの存在は常に意識しておかねばならぬ、という教えのように思える。
果たして、私個人経験で話を進めれば、この話は控えめに過ぎる。
上顎洞癌、そして歯肉癌に遭遇しているからである。
私が格別に粘膜病変を発見する優れたハンターなのではない。
少なくとも言えることは、口腔癌を含める粘膜病変は我々が想定しているよりも多く存在する。
そして見過ごしてしまいがちな厄介な存在であるということだ。
口腔の粘膜病変は、漫然と口腔内を覗いていると見落としてしまいやすい。
さりとて、それでも「見過ごした」という大きな事故は起きにくいほどの遭遇確率であったりする。
実際、口腔癌に遭遇せずに歯科医師人生を終える先生もおられるだろう。ただ、それは運が良い人だと思う。医療漫画『ゴッドハンド輝』のテル先生のような絶対的な天運を持っておられるような人ではないか。つまり、私を含めた多くの歯科医師は、口腔癌に遭遇することは起こりうる事象として認識して日々の診療に従事すべきである、と私は言いたい。
最近、私が経験したのは歯肉癌である。ケースレポートではないので詳細ははぶく。
「ひどい虫歯の周りの歯茎が腫れているので抜歯して欲しい」が主訴であった。果たして当該部に自発痛はなかったが、残根にしては周囲の歯肉の形態が不正で、滲むような出血痕跡を認めた。直感的な違和感をおぼえた。
通常であれば患歯は保存不可能での判断で抜歯、という流れになりうるが、もしこれが歯肉癌であれば抜歯は禁忌である。私は逡巡したが、患者に「ひょっとしたら単なる歯茎の腫れではないかもしれない」と前置きして、口腔外科の受診をすすめ紹介状を書いた。
それから数ヶ月、なんの知らせもなかったので「頼りがないのは無事な証拠。俺の思い過ごしだったのだろう」と捉えていたが、患者より連絡があり、歯肉癌の診断で手術を終えましたとのことであった。私は臨床医として肝を冷やす思いをしたのだった。