2023年10月30日
(図書紹介)小児救急 「悲しみの家族たち」 の物語
2005年刊行の古い本である。私はまだ学生だった頃だ。
その頃、小児科のマンパワー不足が囁かれていたし、メディアでは「たらい回し」という表現が踊っていたように思う。医療漫画『ブラックジャックによろしく』でも、主人公が小児科研修に行った時の過酷な現場の描写があったことも記憶に新しい。
コロナ禍の時分だと思うが、「キツい」外科や小児科、産婦人科は敬遠されて皮膚科や精神科を志す学生が増えているのはいかがなものかと、みたいな論をメディアで読んだ覚えがある。私は、若い人がブラックな職場を忌避するのは当然だと思うし、本人も思うところがあって皮膚科や精神科を目指すのだから第三者がどうのこうのいう道理はないと思う。というか、皮膚科にしても精神科にしても、素人がお呼びもつかないキツさのある生々しい世界だと思うし、ルーチンな当直はないにしても肉体的精神的に過酷な現実と向き合わざるを得ない場面だって少なくなかろう。「風邪の時期は儲かって仕方がないわ」と左団扇な、いかなる風邪の診断時にもフロモックスを漫然処方し続けるやる気のない開業医と同一視しているのではないか。
私は、日本の医療の問題点は開業医が多すぎて勤務医が不足しているところに淵源があると考えている。いやお前だって開業医やろと言われたら苦しいけども、歯科は大学に残りたくとも席がなかったりするし、大学以外に歯科医師として生きていく道の拡張性があまりに小さい。
医学部出身の投資マネージャーやコンサルタントが活躍していてもおかしくないけれど、歯学部出身のそれは想像がつかない。厚労省の技官になっても歯科医師仲間から疎んじられるだけで尊敬もされない。ほとんどの歯学部卒業者は歯科医師として、患者に歯科医療という現物給付を行う立場で生計を立てて行かざるを得ないのが実情であろう。
従って歯科医師に求められるミッションは患者を通じた社会貢献といえる。それは日々の歯科診療に真っ当に向き合うことである。つまり、目の前の患者さんの訴えを聞き、心情的に寄り添い、共感の姿勢で治療にあたり、なおかつ患者さんの個別ニーズをできる限り満たそうと頑張ることである。世の中のデジタル化が進みやれAIだChatGTPとかまびすしい流れにあっても、歯科治療の現場は極限なまでにアナログ的であり続けている。この流れは、そう大きく変わらず続いていくだろう。人を治せるのは人だけである。
さて本書は、小児救急をとりまく家族の悲劇のルポタージュである。
致命的な悲劇がなぜ起きてしまったのか。取り返しのつかない事態となったときの無情さが綴られる。
読んでいると動悸が激しくなり、辛くなって仕方がない。特に自殺された小児科医の精神が疲弊していき、自らを自己否定する場面があるのだが、哀しすぎて落涙を禁じ得ない。もし自分が同じ立場なら、耐えられるだろうか?
世間では医者は高級取りだ勝ち組だとみなされているし、それを否定はできないけれども、自身の健康や人生や家族関係を損なってしまうほどの犠牲を強いられている医師が存在する。そもそも医療現場が、少なからず医療者の自己犠牲の精神に依存していたりする。かつての私のメンターが「患者さんのために尽くす精神を大事にするのは当たり前。でも、自分の家族を犠牲にしてまで患者さんに尽くさなくてはならない究極の場面がきたら、俺は家族をとるよ」と述べられたことがある。独身で放逸な生活をしてて、怠惰なくせに歯科治療に甘い理想を持っていた自分は完全に納得できない意見と受け止めたものであったが、今は同意する気持ちしかない。家族の大事さは、こんな自分でも理解しているつもりだ。
医療というのは社会インフラなので、平時は「ちょっと緩い感じ」で現場が円滑に動いているぐらいが望ましいのではないか。その代わりとして、有事の際は総力戦で状況にあたれるよう平時は常に余力を確保しておくという理屈である。けれども、そうであると「医者のくせに暇そうにしやがって」と怨嗟の声を受けたりもするし、元来、病院というのは経営的に働けば働くほど医業収入はあがる仕組みであるから、やはり医療従事者はオーバーワークになってしまうものかもしれない。
共産主義よりは資本主義の方が良いのはいうまでもない事実だが、資本主義が突き進むと新自由主義が台頭し始めて、日本のような程よい社会主義が併存してきた社会が狂ってきたような気がする。民主主義は理想的だが莫大なコストがかかり、国民の衆愚化がすすむと国家の危機に直結するように、新自由主義ほど極端にふれないまま、程よい資本主義のなかで発展を目指す社会になってほしいものである。高校生の頃に「政治経済」で学年ワーストの点数をとって教師に呼び出しを喰らって怒られた私はそんな風に考えて生きているのである。