2021年11月26日

思うところあって、遅まきながら英語の勉強を細々と続けている

a book for english.jpg

語学の勉強は、エンドの治療と同じで様々なアプローチや手法があって、なにをどうしたらいいものか迷ってしまう。

書店に足を運び、語学学習のコーナーに行くと、「英語はコレでOK!」とか「◯◯式英語勉強法でペラペラ」とか「英語はインド式に学べ」とか、英語のハウツー本が大量に陳列されていて目眩がする。これだけたくさんあるということは、英語のハウツー本は売れ筋商品なのだろうと思う。英語を習得したいと思う日本人や、英語にコンプレックスを抱いている日本人が多いからだろう。だが結果として「これだけの優れたノウハウがあったので日本国民は英語が堪能になりました」という帰結には至らず「英語の学習法についてのみやたら詳しい日本人」が増えているだけで、日本人の英語のレベルは大きく向上していない気がする。そのうちAIがなんとかするだろう、という趨勢もあるし、英語に関してはもうなんでもアリの世界に思える。学びたい人は学べば良いのである。しかし、どうやって……


私のお気に入りの本に『英語達人列伝』がある。実在した偉人たちの英語への姿勢から、多読こそが英語取得の鍵であると述べる、知的面白さのあるエピソードまじりに過去の偉人について知ることができる名著である。英語を多読すれば到達できる境地がある。その説得力がすごいのである。

本書に倣って、私は英文の多読を始めた。
手当たり次第に読める題材がなかったので、ひとまずエンドの論文をネットで探して印刷して読むことにした。そう、私は英語の論文が読めるようになれればよいのだ。「英語ができる=ペラペラ」という図式は、少なくとも私の念頭にはない。スピーキングもライティングもリスニングも不要。ただリーディングができればよいのである。ここはシンプルに定まった。だから、本書を読んで膝を打つところが多かった。とにかく読めばよいのだ!

そして2年経ったが、相も変わらず私は英語がサッパリできない。肝心の英語論文のリーディングのスキルが向上しただろうか?と自問しても、うーん少しぐらいは……と自信は毛ほどもない。情けないことこの上ない。つまり、私は英語の論文を「読めて」はいなかったのだ。その実、読んでいる振りをする経験を積んでいただけなのだ。志の甘さが目的を手段とすり替えてしまう。とかく未熟者が辿りがちな陥穽である。英文の上を目が滑っているだけでは読んでいることにはならない。主語と述語を違えず、英文に込められている意味を拾い上げて理解できていなくてはならない。無理やりに読み進め続けることで読めた気になっていてはいけない。

私にとっての導かれる答えは簡単だ。「英文の意味を読み取れる」ただそれだけである。
とすると、センテンスの塊たる英文の文章、そこに込められた文意を読み取れているかどうかからスタートしていかなくてはならない。文意をまともに拾えもしないのに英文をただ読んでいても、決して「読める」ようにはならないのだ。


これを鍛えるためにはどうしたら良いのであろうか?
私は、大学入試用の英語の長文教材に当たることにした。内容的にも学術系が多いだろうし、全訳が載っているからである。全てのセンテンスを、満足に読めているのなら解説にある全訳と照会する作業を通じて文意を読み取る能力を力づくで鍛えていけると考えたからである。なにしろ、読み当たってきた論文は日本語訳がないので、自分が好き勝手に読んでいても正誤および文意整合のフィードバックがとれない。


さて書店に赴き大学受験の参考書の一角に立って「英語長文」系を手に取ってみたが、どいつもこいつも難しすぎて私はすぐに棚に戻した。中学生用の英語長文練習ドリルなら解けたが、内容の水準が低すぎても手応えが薄い。そこで「英語長文-入門」系を探してみると、価格的にも、難易度的にも、テキストのサイズ的にも、自分に相応しいのがあったのでそれを購入した。


勉強にあたってのルールとして「最低でも1日1題を解く」ことにして、毎日、継続して英語に触れることにしている。私は受験生ではないので、時間と余裕だけは確保されているから精神的には楽なものだ。続けていくことで運良く英語の勉強が習慣になってしまえば、更に楽になる。英文を読んで頭のなかで日本語訳にしていく作業と全訳を用いた答え合わせをひたすら繰り返していけば、牛歩の劣等生であっても、成長するだろう。


かつてゲーテが「外国語をひとつも知らないものは、母国語をも本来は知らない」と述べたように、第二言語を学んで理解していけば、自分の思考を司る母国語を相対的に扱えるようになるはずである。特に英語は日本語に比べて論理的なので、英文に触れ、文意を読み取ることを繰り返すことは、その行為そのものが丁寧で論理的な思考の訓練になるはずだ。いきおい、自分の思考をより意識的に扱えるようになるだろうし、潜在的な思考の自動プロセスが強化されることから、自分でも思いもよらない概念的発想が得られるかもしれない。

こんな下心をもって英語を勉強するのは邪道かもしれないけれど、せっかく英語を学ぶなら自分の思考力の向上も狙えるかも、ぐらい考えた方がモチベーションにもなるってもんよ。

posted by ぎゅんた at 08:23| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月17日

SNSとは、登録だけしておいて特定の相手と個別メッセージのやり取りをするためだけに利用するツールである

IMG_7477.JPG

実生活でもネット上であっても「Facebookやっておられるなら、是非…」と聞かれることがある。
是非、なんだよ?と思うなかれ、これは単に「フレンドになってつながりましょう」という意味であって、別の意図が含まれていることはない。

果たして、私は「アカウントだけはあるけど放置しているので、やめときましょう」と答える。
この返答に対し、相手が残念がったり怒ったり訝しんだりはしない。なぜなら、問うてきた相手にとっても「今日はいい天気ですね」と同レベルのセリフに過ぎないからである。本当は、社交辞令的なやり取りだと理解できているのだから、断ることなくフレンドになるのが正解だ。そうなっても放置をかますことになっても、相手は気にもしないのだから。


SNSは暇つぶしにでも使えばいい程度のコミュニケーションツールの認識を持って長年を過ごしてきたが、ここ数年、アクセスして投稿を読んでいると死にたくなってくる気持ちを感じることが多くなった。気にする必要なんてないのに相対的に他者と自分を比較して勝手に人生の質の格付けをしているからだと思う。要するにこれは、性格的に器が小さいとか、つまらないことで細かいタチだとか、常に損をする性格をしている、というマイナス点を自分の感情の想起を通じて自覚させられているに過ぎない。記憶違いでなければSNS疲れなんて言葉があった気がするけれど、ひょっとしたらコレがそうなのかもしれない。該当する人は性質的にSNSに不向きな人種なのだと思う。

SNSを上手に使いこなせるユーザーは、物事を冷静に考えられることができ、分割並列整理されたフレーム思考のできる頭の良い人なのだろう。私はせいぜい、SNSに付属する個別メッセージ機能が便利で、それを目的に使うことが殆どだ。たまに、気の迷いのように記事を投稿することはあるが、殆ど利用していないユーザーに等しい。


私とネットとの出会いは、大学生時代に遡るが、常にパソコンを通じてのものだった。今でも、ネットというのはパソコンというプラットフォームを介するものという認識でいる。

けれど多くの人はネットはスマホ上で完結しているのが当然で、それを疑問に思いもせずにいるのではないだろうか。SNSはアプリを起動すれば即座にアクセスできる極めて身近な存在のひとつに違いない。そのことについて是非を問うつもりはないけれど、少なくとも私は違和感を覚えるし、いまだってスマホは所有せずガラケーのままである。ネットも、自室のパソコンを起動するかWifi接続させたiPadを通じてでないとつながることができないし、それ以上の必要性をおぼえない。電車を利用すると、ほとんどの人が首を曲げてスマホに食いついているけれど、私には異様な光景に見える。

こうした私の考えは、私のような年代の人間の中でも少数派であり、異端なものだと分かっている。私の身近な人間でスマホを持っていない人間はいない。一緒に過ごしていても、ふとした隙があればスマホを弄ろうとする振る舞いがあって、愉快な気はしないと同時に病的なものを感じることがある。もっとも、私はスマホは使わないけれどもWiFi環境下ではiPadを使っているので、場所とデバイスが違うだけで、ガジェットを用いてネットを使っている立場は同じなのだが。


海外の先進派や自然派の中には、スマホをもたずにネット環境のない場所にいって一定期間を過ごす「デジタルデトックス」をしている人がいると聞くけれど、アーミッシュじゃあるまいし、今時、相応の理由なしにそのような極端な行動をとることは裕福を持て余してよほど暇なのだろうと思う(どうせそれが終わったらインスタに事の顛末を投稿するのだから)。

ただ、スマホ中毒という言葉もあるように、日々がネット漬けになっている人は、自身の生活が行き過ぎていないか検証しても良いかもしれない。デジタル文化は分かりやすい便利さと面白さに満ちているけれど、そんな世の中であってもなお残り続けているアナログな文化の中に、まだ拾い損ねていた宝物があることに気づくかもしれない。

とりあえず私は、デジタル書籍には身体が馴染むことがなく、読書は本という媒体を手に取って頁をまくらないと頭に入らないものだと気付かされた。そして、図書館や本屋に足を運ぶ回数が明らかに増えた。効率として良くない生き方をしている自覚はあるが、私にできる変化への適応は、この辺りが限界だ。
 
posted by ぎゅんた at 20:46| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする