2016年09月27日

キュアグレースという即重

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和田精密主催のとある勉強会に参加したおり、協賛企業であるトクヤマよりロハ(死語)でいただいた即重がこのキュアグレース(トライアル)である。気前がいいですな。

学生時代から実習で触れ始めた即時重合レジンは、プラ製部品の暫間修理に始まって仮封・TEK・個歯トレー・個人トレー・義歯と様々に姿を変えて働くユーティリティなアイテムであり続けている。

私の中で「即重」といえばGCのユニファストUである。ユニファストVが出て年月が経っているのに、未だにユニファストUが第一線で使用され続けている不思議(ユニファストUの在庫が切れ次第、Vに置き換わると聞いた記憶があるのだが)。ユニファストVは、Uと操作感が微妙に異なるので、それを嫌った先生がとても多かったのだろうか。即重は、わずかな使用感の違いが使用者の好みに大きく合致する材料なのである。もっとも、単にルーチンに使い続けている先生が多いだけかもしれない。うちの親父のことである。なんだかんだで私の手に馴染んでいるのもユニファストUである。

このキュアグレースは、低重合収縮と発熱反応の抑制に加え、重合硬化後のレジン切削時に発生する、即重モノマー特有のあの臭いを芳香で軽減させている設計になっている。実際に硬化したレジンを削合するとほのかにグレープの香りがする。試しにTekを作ってみる。混和泥の重合時の発熱は確かに小さく、重合収縮も抑えられている気がする。操作感にもクセがなく扱いやすい。カーバイドバーでトリミングしてもボソったり割れたりしない。悪くないんちゃう。

口腔内で吸湿したレジンは、とにかく臭いが酷くなるのが欠点だ。その臭いは激烈で、とくにTEK調整や義歯調整にあたった二日酔いのドクターを嘔吐させ続けてきた。このキュアグレースであれば嘔吐せずに済む!…かどうかは分からないが、多少はマシだろう。多分。

即時重合レジンで見過ごされがちなのはそのコストである。キュアグレースに限った話ではないが、即重は意外に値が張る材料だ。過去、学生実習や研修医時代にコストを気にせず遊び半分でユニファストUをアヘ顔で使いまくっていたものだが、もうジャンピング土下座でゴメンナサイとしか言えない心境。

ユニファストUとこのキュアグレースより安価な即時重合レジンも存在するが、まだ使ったことがないのでなんとも言えない。最安価の即重と最高価の即重だと、どれほどかの違いがでるのだろうか?
 

根充直後よりもその経過

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出来たハズだと思っていたテストの結果を知る直前の緊張感に、いつまでたっても慣れることができない。大学入試試験も、運転免許試験も、歯科医師国家試験も、その結果を知る直前まで言いようも言われぬ不安感に苛まれていた感覚をいまも鮮明に思い出すことができる。試験は出来たハズ、だが、「自分に限っては駄目」なのではないか?と最後まで失敗の疑いを払拭しきれない自分がいることを実感する。

根治・根充して数ヶ月〜数年経った患歯をX線写真で撮影することになった時も、現像される直前に不安混じりの緊張感をおぼえる。なんら一切の根尖病変の所見がない時には安堵のため息が漏れ、写真上で写っていた根尖病変が縮小ないし消失していた時には充足した達成感で満たされる

抜髄根管に限っては、根充がアンダーでも余計な感染がなければ根尖病変を形成もせず問題なく経過する。現代エンドでは嘲りの対象となる綿栓根充であっても、感染さえなければ良好な経過を辿るはずだ(試したことが無いので推測)。拡大した部分まで根充されておらず死腔になっていれば、根尖ギリギリまで根充されている像が理想と考えてしまう歯科医師の心理からして、アンダー根充になっていることへの心理的な抵抗はあるものの、拡大と洗浄・消毒された無菌に近い根管で根充されていたのであれば許容される臨床経過を辿る。

死腔説-死腔が体内に存在すること-の存在から、アンダー根充への潜在的な嫌悪感は払拭しきれない気持ちが残るが、根管という複雑怪奇なメイズを人間の手作業で全て綺麗に仕上げ封鎖できるものかどうかを考えれば、そもそも根管治療自体が極めて非科学的で不確実なものにすぎないと唾棄したくなる。

 しかし、歯科医は根管治療を等閑にしてよいと考えはしない。アンダーは適切な根管治療がなされていればそれが許容されるだけであって、アンダーにならぬよう全力を尽くすことは変わらない。重要なのは感染源の除去と清掃・消毒が達成された根管を無菌的に封鎖することである。たとえピッタリに根充されていても感染性有機debrisが存在していれば、根充後の確認写真がいかに立派で見栄えがよくとも泡沫の満足感にすぎないものとなる。優れたエンドドンティストは、根充直後の写真よりも根充後の経過確認写真を重視するものだが、その理由はこのようなところであろう。

 根充後の患歯がどのような経過をたどったか。良好な経過であれば、なぜか。期待した経過をたどらなかったのなら、なぜか。根管系という、あらゆる職業のなかで歯科医師しか触れることのできない聖域に手を突っ込んだその経過を、常に考察し続けることは歯科医師に課せられたひとつの責任であろう。


※写真上で根尖病変がなさそうに見えていても、根尖病変が皮質骨に及んでいないだけかもしれないことは留意せねばならない
 
posted by ぎゅんた at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治(未分類) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月08日

第三者に常に見られる己の臨床〜同僚歯科医師・勤務医の存在

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特に意味もなく不忍池の写真

一度封を解いた炭酸飲料は、いかにキツく蓋を締め直したとしても炭酸が抜けてしまうものだ。歯医者の診療も、身近な第三者の同業者の視線に晒されなければ次第に気が抜けて詰めの甘い処置に成り下がる。どれだけ難しい処置を上手にしても、素人にはその質は理解されず、手を抜いたとしても然りであれば、低きに流れることが人間の正体であるからこそ、気が抜けてしまう。このことを自覚し、そうならないよう律するものが歯科医のプロ意識であろう。

目下のところ、私は父親と診療している。第三者のチェックがあることからくる診療への適度な緊張感があるかと問われると、ないと答えざるをえない。良くも悪くも同族同種経営はぬるま湯で、元祖と本家で争うラーメン屋のような激しいパッションはそこにはないのである。親子共同で歯科医院を営むのは、業界でまことしやかに囁かれているように、やはり、オススメされることではないのだ(他人ではないところからくる感情的な縺れが原因で、余計な喧嘩が生じたり親子関係に軋轢を生じたりしやすい、とか色々ある)。

ほんなら自分の症例をあげればいいじゃんということになるが、まことにその通り。しかしそれは自信がない。これは己の弱さと保身がため。断片とはいえど、実際の患者さんの情報を不特定多数がアクセス可能なネットの世界にアップすることへの戸惑いもある。「地図と現地は違う」という格言がある通り、写真でみる症例と目の前の患者さんの口腔内の症例には隔たりがある。実物の症例をナマでシェアして研鑽を積むことはできやしない。

開業医をやっていると、とかく保守的になる。新たな治療技術の導入やシステムの改善は、常に行われ刷新されていかなくてはならないが、これが滞ることがある。歯科医院の経営が軌道にのると、冒険せずそのままでいたい気持ちになるのである。チャレンジはリスクを伴うからである。守りに入ってしまいがちなのである。

世の中で成功している先生方は、おしなべて勉強家で、知識と技術向上に貪欲である。狭い世界と細い交流からの判断でしかないが、例外はないように思える。そうした先生方は症例発表をこなし、勤務医を抱えているのもほぼ共通している。そこには、同業の第三者による評価に常に晒されていることからくる緊張感が良好に作用しているのではないか。

当院では、水曜日の16:30以降に、友人ドクターに来てもらっている。小児の矯正に明るいので、保護者の相談にのってもらっている。簡単な処置や抜歯を代わりに行ってもらうこともある。互いに自分の臨床を晒け出すことになっているわけだが、それが自分たちにとって良い刺激になると考えている。診療後の食事の席で開業医同士の生々しい情報交換ができるのもよいところだ(ここが一番キモかも…)。

こうしたことが頭にあるから、最近の私は勤務医を欲する気持ちがでてきた。「ただの代診」で雇うのではなく、一緒に切磋琢磨勉強して臨床を楽しみ、治療の引き出しを二人三脚で増やしていけるような相手を渇望する気持ちだ。これは、とても都合のいい話だ。開業医は臨床も人事も経営もひとりで責任つけてこなさねばならない孤独なスタンドアロンな所業と分かっていながら、「自分はひとりで頑張れない子だから一緒にやろう」と誘いの声を発しているのだから。しかし、診療後に一緒に抜去歯牙で練習したり、格調高い種のセミナーに共に殴り込んだり、自分たちの治療の引き出しを整備拡張していったり、診療内容について喧々諤々のディスカッションしたりする、そうした相手が欲しい。

マツダのロータリーエンジンが孤高の存在でありながら凋落したのは、孤高すぎて競い合うライバルがいなかったからと聞いてたことがある。開業医も、孤独でいるよりは忌憚なく競い合える・影響しあえる・勉強しあえる仲間がいるべきだと感じる。できることなら研修医あがりの若いドクターが良い。支払う給料が安くて済むからという俗な理由ではなく、手取り足取り教えるということが、己の勉強にこれ以上とない契機となるからである(理解していないと教えられないし、理解不十分な部分が鮮明になる)。

勤務医を雇うという行為は、雇用者にとってみればリスクがあるしストレスの種にもなる。それを知っていながらも、やはり勤務医を欲するわけである。自分が楽をするためにではなく、己の勉強のためなのである。人は他人との干渉が煩わしいものと理解していながらも、なんだかんだで、やはり人と関わりを持つことをやめない生き物なのである。

余談だが、開業医の悩みの比率は診療・経営・人事がそれぞれ1/3が適切と聞いたことがある。
そうかな?そうかも。
 
posted by ぎゅんた at 10:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 歯科医院について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする