探しものがあり学生時代の荷物群の中を漁っていたところ、懐かしい本を発見した。「ご冗談でしょう、ファインマンさん(上・下)」である。大学二年生の頃に購入した記憶がある。まだ一般教養と専門課程が混在している時分であった(※)。
リチャード・フィリップス・ファインマンは、面白すぎる米国のユーモラス物理学者である。本の中身は、そんな彼の生い立ちや人となり、楽しいエピソードがてんこ盛りとなっている。読み進めるうちに、彼がどれほど物理学を愛しているか、知的好奇心と知的快楽に首ったけになっていたかが分かる。
学者たちは、研究が楽しくて仕方がないという。第三者から、少し休んだらどうだと心配されるぐらい研究づくめの毎日である。それは、研究自体が楽しくて仕方のない、当人にとっての快楽そのものであるから他ならない。古来より、偉人(学者、哲学者など)は安楽な快楽に耽ることを戒めてきたが、それは模範的回答として聖人ぶっているわけではない。知的快楽に比べれば肉体的快楽は質の低い快楽にすぎないと達観しているからであろう。誰しも一度は、パズルや思索、学問で「ハマった」瞬間に脳内に溢れ出る快楽物質に酔った経験があろう。なるほど、あの快感は確かに知的快楽だ。それも極めて健全な…もし人為的に強制的に類似の快感を得たければ麻薬に手を出さねばなるまい。しかしそ行為が健全であると思う人はいない。だから、学問はとても楽しいものだ。健全で、建設的で、生産的で、なにより、当人に病みつきになる快楽をもたらすからである。
私に限らず、歯科医師はみんな、生涯、勉強をし続けなくてはならないと思っている。どの分野でも、基本的に知識は時間と共に過去の知識になっていく。情報を常にアップデートしていかなくてはならない。勿論、「新しい情報」すべてが有益になるわけではなく、消えゆく運命にある情報も多い。商業主義に躍らされた誤った情報や倫理的・道義的に首を傾げざるを得ない情報も多い。有益な情報かそうでないか。それらを素早く自分で判断できる見識がなくては情報に振り回されてしまう。これを支えるのが、ベーシックな基礎知識(教科書的な一般歯科医学)と臨床経験から得られた実地的見解であろう。とはいえ、最も重要なのは、歯科医師本人の意欲と情熱ではなかろうか。現状に上書きしていく知識・新しい情報を自分のものにするためには、現在の立ち位置から一歩を踏み出さなくてはならない。それには普通、大きなエネルギーを要するからである。億劫に感じるのである。人は現状に満足してしまうと足を止めてしまうがちである。歩くのを止めて足場を固めるのも重要だが、いつまでも足踏みしているわけにはいかない。
…こう考える私も、いつも常に勉学するエネルギッシュな気に溢れているわけではない。勉強する気に全くならない時も多いし、仕事が嫌で逃げたくなる時だってある。「仕事が楽しくて仕方がない」とか「患者さんに感謝されるから仕事を続けることができます」と格好いいコメントのひとつでもしたくなるが、あいにく、そこまで人格者でもない。感謝されれば嬉しいが、不満足な形だけの治療をして感謝されても虚しく感じる。それぐらいならむしろ、患者さん自身はサッパリ理解出来ないし感謝もしないが、自分からみて最善を尽くして最良の結果が得られた症例の方が遥かに嬉しい。自分自身が承知納得できる仕事ができたのであれば感謝されなくても構わないと思っている。達成感で満腹になるのである。理想的には、術者は持てるすべてを尽くし、最善の結果を得て、患者さんから感謝が得られ、治療が成功したことを共に喜び合うものなのだろう。そこでは、術者の能力は、ただ患者さんの満足を実現するためだけに存在するのであり、術者の治療技術云々は特別に問われない。まるで空気のように当たり前のようにそこに在るのである。とても格好いいし憧れるが、私はまだその境地への入り口にも達していない。
大いなる目標が遠くにあれど、目的地はわかっている。だから、着実に歩み続けて行こうと思う。
歯科の勉強すべてが楽しくて仕方がないとか、寝食を忘れ仕事に没頭するほどの情熱はないけれども、倦まず弛まず鍛錬を積んで行きたい。歯科の治療は、本質的には「指が動いてなんぼ」の職人的要素が多大きいので、処置が上手にできるようになると好きこそ物の上手なれで、単純に仕事が楽しくなってくるものだ。それで結果として自分が承知納得でき、患者さんから感謝されればしめたものである。どんどん頑張りたくなる。繁栄のスパイラルである。果てしないその延長に、自分の技術がただ患者さんの笑顔みるためだけにあると達観するようになるのだろう。実に格好いい話である。
私は冒頭に紹介したファインマンや、世の学者たちのように「研究が楽しくて仕方がない」ほど仕事が好きな人間ではないが、もっともっと、誰よりも治療が好きになっていけるよう、上手に処置ができるよう、頑張って行きたいと気持ちはある。
こういう気持ちがなくなって、勉強する気もなにも無くなったときは仕事をリタイアするときだと思っている。身体がついていける限り現役で頑張り続ける未来があるかもしれないし、己の歯科治療に心胆満足してキッパリと足を洗い、趣味に生きる未来があるかもしれない。その道半ばにして病気や事故でリタイアするかもしれない。目標は決まっているので歩き続けることにしよう。歩くのが遅くても回り道をしていても、私の中の目的地は変わらないのである。
※)
一般教養。母校での一年生は専門課程とほぼ縁がなく、一般教養講義だらけであった。このカリキュラムは、おそらく今もそう変わらないのだろう。歯科医師になることを夢みて入学した学生を待っているのは、専門課程と縁がない(ようにし思えない)高校生〜受験の勉強思い起こさせる講義なのである。一般教養が、将来の専門課程と分野の礎となる重要なものである位置づけは理解していても、しかし、未来に向けやる気に満ち溢れている学生冷や水を浴びせかけるカリキュラムなにしか思えず、いまだ理解できない。義務教育と高等教育課程、受験を経て入学してきた学徒にはもう不必要な存在にしか思えない。実際に国家試験で一般教養課程の問題が出てくることはない。学生時代の我々(同級生)は、歯科大学は、その名を偽った専門学校であるとしばしば自虐的に表現したものであった。