以下に述べる内容は、私(ぎゅんた)の考えです。
およそ学術的な観点は期待しないで下さい(教科書じゃない!)。
根治の目的:perの予防と治療
これは基本的に歯内の感染源が除去されることで達成される。治癒の本体は生体の生命力・治癒力であり、我々はそのお手伝いをするにすぎない。
病巣は歯内にあり、それが根尖に病変を起こすのである。
治療の回数や時間、治癒に要する時間は限りなく小さくしたい。
巷に溢れる膨大な機器・材料・手段・手法から何を選択し、どう使いこなすか?方法は多岐にわたり、各Dr.がmodifiedしているものと考えられる。
常に効率化が求められる。
ここに1本、歯牙が与えられ「抜髄をしろ」となると、我々は「…髄腔穿通〜天蓋除去〜根管口明示〜外形線の修正〜根管長の測定〜…」と、およそ一連の流れを学生時代のエンドの実習から思い浮かべる。この術式は基本であって、揺るがない。「確かな原則」である。
しかし、各ステップで術者が何をどのタイミングでどのように使い達成するかは術者により差異がある。様々ある。
各ステップをできる限り早く正確に終わらせられるよう効率化が必要になる。
そのためには、自分にあった方法を確立しなさい、ということになる。「型」をつくるのである。
教科書・参考書、先輩や指導医、同僚の方法を真似たり導入することになる。ある方法はうまくいかないが別の方法だとうまくいくことはよくある。細かいところで向き不向きがあるからである。
結局、自身が最も早く正確にできる「型」を自分で見つけ出すしかない。
このサイト(ブログ)は、私(ぎゅんた)が行っている方法や考えを記載していくものです。
EBMに基づいているのかどうかの論拠、ある自分の考察のベースとなる裏づけについて詳細に記すことはありません。リファレンスを引くのは苦手です。
意見、改善点、「私はこうしている」、などのご意見はぜひご教示ください。
次回は「エンドにおける確かな原則」についてチンタラ書いていきます。
c u APEX!
2012年03月30日
2012年03月21日
歯科医を目指した理由は
いかにも受験の面接で聞かれそうなタイトルであるが「初心忘れるべからず」の諺にならってここに記しておきたい。この記事は、殆ど自分の頭の中の情報を文章にアウトプットして、初心を思い起こすためのものである。
一般に考えられる理由には、このようなのものが多いのではなかろうか。
1.親が歯医者だから
2.世間体が良いから
3.裕福な暮らしができるから
4.医師と違って患者の生き死にに直面しないから
etc
など、いろいろ考えられる。
この順番で記載されているということは、のお察しは当たっていて、ぎゅんたの場合は、まず1と2があった。だが、子供の頃からないが歯医者だし自分も、と思っていたわけではないし志望もしていなかった。本格的に歯科医師を目指したいと思うに至ったのは浪人時代である。
父親が歯科医院を(実家に)開業してから自分が生まれた。
子供の頃から「歯医者の息子」と言われてもイジメのネタになったり特別に羨ましくおもわれることもなかった。暮らしぶりは中流より上にいたのだとは思うが、何でも買ってくれたり、旅行に飛び回ったり、外車を有するものでもなかった。金持ちというのは、働かなくてもいいほど、金があり、お金に縛られていない自由人をいうのである。食うに困ったりしたことはないが、贅沢に耽った思い出もないのである。大人になってわかったのは、親族に金の工面を押し付けられていたのであった。
父親のことが特別に好きなわけでもなかった。
家庭でスタッフのだれそれがどうのこうのと不満をいう姿を見ていた。歯科医になることに憧れることもなかった。将来、自分がどのような職につくのか想像できなかったし、歯科医になるには自分の学力が足りているとも思わなかった。満足の行く学業成績ではなかったのである。
姉が一人いるが、姉は成績優秀であった。スポーツも芸術にも秀でていた。自分とは違った。
夜遅くまで机に向かっていた姉の姿をみて、当時の自分は立派だ見習わねばと思いこそすれ、真似できるものではなかった。姉は国立の建築学部から歯学部に進路を変更し、合格した。
高校の二年の時だったであろうか、映画「アウトブレイク」を見て、「ホット・ゾーン」とというノンフィクションドキュメントに興味を抱き図書館で借りて読んだ。衝撃を受けた。時の経つのも忘れて読んだ。ウイルスの研究者になりたいと思った。しかし、その為にはどの学部にいけばいいのかわからない。バイオサイエンス学科とか、生物学部とか、理学部なのか?
そこで進路指導室に趣き、先生(生物担当)にきいてみた。
「ウイルス学者として米国CDCで働きたい?うーん…そうだな、東大の理Vにでも入って医者にならない限りは無理じゃないか?」との応えである。夢は砕け弊えた。
ここで「そうか、目標がわかったぞ。ありがとうございます」と、猛然と勉強を開始して夢を諦めずに追いかければ、今、実現していたのかもしれない。
「人間は、自分がなりたい姿を具体的にイメージし続けて努力することでなることができる」ことを知らなかった。受験とは「合格する」という絶対的な目標がまずあり、成し遂げたいと強く思うからこそ合格を勝ち得る道が開けるのである。そこにはドラマがある。
具体的な将来像も描けぬ自分は、そのまま浪人生になっていた。
ある時、母親に、親父がしている仕事ってどんなものだろう?と訊いた。
根っこの治療が上手いという。ダメになった根っこを治療して、抜かずにまた噛めるように治療するのだと。
見えることのない歯の根の中を触る地道な処置だが、歯を残し自分の歯でながく噛んでもらうために頑張ってやっているのだと聞いた。
俺は衝撃を受けた。そしてちょっとした感動をおぼえたのであった。
本来、抜かれるような歯を頑張って治療して残し、噛めるようにする治療。すごく格好いいじゃないか!
職業に貴賎はなく、どのような仕事であれ他人の為・社会の為になる。だからこそ報酬が得られるのだ。
そう思っていながらも欲張りな俺は、直接的に感謝される歯科医師という職につきたいと思った。
浪人一年目の九月ぐらいに頃である。
そうだ、昔から人を助けるのは好きだった。
こうして、勉強を始めた。
直近の模試でどれだけの合格判定が得られるか頑張ってみよう。
結果として、当時の偏差値で見て最も低い私立の歯学部でA判定が出た。その大学に行きたい気持ちは更々なかったが、結果を見た親父はとても喜んでいた。オイオイ、A判定とはいえ私立だぞ?入学したら莫大な寄付金を要求されるって自分で言ってたやんけ。
と思ったのであったが、喜んでくれる気持ちは純粋にあるのだろう、口にはしないものの、息子が自分と同じ職を志したことが嬉しいのではないか。そう考えた。それなら、もっと頑張って、寄付金の要らない大学を狙うことにしよう。そして母校に合格した。その延長に今に自分がいる。なりたいと思った姿・願ったイメージは実現する。勿論、願うだけでは叶わない。願うイメージに向かって、できることを地道に着実にこなしていく努力が必要なのだ。努力という文字が頭に浮かぶと、いつも夜遅くまで机に向かっていた姉の姿が重なる。夢を実現するのは選ばれたものではなく、信じ抜いたものである。己が欲する真に価値あるものは、容易く得られるようには出来ていないものだ。
俺が処置してダメなら保存不可(抜歯)!と、言い切れるぐらいのエンドドンティストを目指す。
エンドを通じて、患者に幸福を創造する、治らない治せないとエンドに泣く姿はイメージしない。
手早く、痛くなく、すぐに治癒に導けるエンドが出来るドクターをイメージする。…こうしてかくと気恥ずかしいものだが仕方が無い。
余談
姉の勉強の下に敷かれていたカーペット、椅子のあったぶエリアが擦り減ってツルツルになっていた。
それを見た親父は、姉に勉強机を買い与えて本当に良かったと、心底打ち震えるように思ったらしい。親泣かせである。
俺の机に関して述べることはないのは言うまでもないが、だが、親を泣かせる道にそれたことはないだろうと思っている。
姉に比べて立派なことを成し遂げたわけではない自分だが、これで十分だとも思うのである。
自助論 (知的生きかた文庫)
君たち,なぜ歯科医になったの?
デンタルオフィスナビゲーション 勤務医として働くということ―学び・技術・対応 (Welcome to Dental Office)
一般に考えられる理由には、このようなのものが多いのではなかろうか。
1.親が歯医者だから
2.世間体が良いから
3.裕福な暮らしができるから
4.医師と違って患者の生き死にに直面しないから
etc
など、いろいろ考えられる。
この順番で記載されているということは、のお察しは当たっていて、ぎゅんたの場合は、まず1と2があった。だが、子供の頃からないが歯医者だし自分も、と思っていたわけではないし志望もしていなかった。本格的に歯科医師を目指したいと思うに至ったのは浪人時代である。
父親が歯科医院を(実家に)開業してから自分が生まれた。
子供の頃から「歯医者の息子」と言われてもイジメのネタになったり特別に羨ましくおもわれることもなかった。暮らしぶりは中流より上にいたのだとは思うが、何でも買ってくれたり、旅行に飛び回ったり、外車を有するものでもなかった。金持ちというのは、働かなくてもいいほど、金があり、お金に縛られていない自由人をいうのである。食うに困ったりしたことはないが、贅沢に耽った思い出もないのである。大人になってわかったのは、親族に金の工面を押し付けられていたのであった。
父親のことが特別に好きなわけでもなかった。
家庭でスタッフのだれそれがどうのこうのと不満をいう姿を見ていた。歯科医になることに憧れることもなかった。将来、自分がどのような職につくのか想像できなかったし、歯科医になるには自分の学力が足りているとも思わなかった。満足の行く学業成績ではなかったのである。
姉が一人いるが、姉は成績優秀であった。スポーツも芸術にも秀でていた。自分とは違った。
夜遅くまで机に向かっていた姉の姿をみて、当時の自分は立派だ見習わねばと思いこそすれ、真似できるものではなかった。姉は国立の建築学部から歯学部に進路を変更し、合格した。
高校の二年の時だったであろうか、映画「アウトブレイク」を見て、「ホット・ゾーン」とというノンフィクションドキュメントに興味を抱き図書館で借りて読んだ。衝撃を受けた。時の経つのも忘れて読んだ。ウイルスの研究者になりたいと思った。しかし、その為にはどの学部にいけばいいのかわからない。バイオサイエンス学科とか、生物学部とか、理学部なのか?
そこで進路指導室に趣き、先生(生物担当)にきいてみた。
「ウイルス学者として米国CDCで働きたい?うーん…そうだな、東大の理Vにでも入って医者にならない限りは無理じゃないか?」との応えである。夢は砕け弊えた。
ここで「そうか、目標がわかったぞ。ありがとうございます」と、猛然と勉強を開始して夢を諦めずに追いかければ、今、実現していたのかもしれない。
「人間は、自分がなりたい姿を具体的にイメージし続けて努力することでなることができる」ことを知らなかった。受験とは「合格する」という絶対的な目標がまずあり、成し遂げたいと強く思うからこそ合格を勝ち得る道が開けるのである。そこにはドラマがある。
具体的な将来像も描けぬ自分は、そのまま浪人生になっていた。
ある時、母親に、親父がしている仕事ってどんなものだろう?と訊いた。
根っこの治療が上手いという。ダメになった根っこを治療して、抜かずにまた噛めるように治療するのだと。
見えることのない歯の根の中を触る地道な処置だが、歯を残し自分の歯でながく噛んでもらうために頑張ってやっているのだと聞いた。
俺は衝撃を受けた。そしてちょっとした感動をおぼえたのであった。
本来、抜かれるような歯を頑張って治療して残し、噛めるようにする治療。すごく格好いいじゃないか!
職業に貴賎はなく、どのような仕事であれ他人の為・社会の為になる。だからこそ報酬が得られるのだ。
そう思っていながらも欲張りな俺は、直接的に感謝される歯科医師という職につきたいと思った。
浪人一年目の九月ぐらいに頃である。
そうだ、昔から人を助けるのは好きだった。
こうして、勉強を始めた。
直近の模試でどれだけの合格判定が得られるか頑張ってみよう。
結果として、当時の偏差値で見て最も低い私立の歯学部でA判定が出た。その大学に行きたい気持ちは更々なかったが、結果を見た親父はとても喜んでいた。オイオイ、A判定とはいえ私立だぞ?入学したら莫大な寄付金を要求されるって自分で言ってたやんけ。
と思ったのであったが、喜んでくれる気持ちは純粋にあるのだろう、口にはしないものの、息子が自分と同じ職を志したことが嬉しいのではないか。そう考えた。それなら、もっと頑張って、寄付金の要らない大学を狙うことにしよう。そして母校に合格した。その延長に今に自分がいる。なりたいと思った姿・願ったイメージは実現する。勿論、願うだけでは叶わない。願うイメージに向かって、できることを地道に着実にこなしていく努力が必要なのだ。努力という文字が頭に浮かぶと、いつも夜遅くまで机に向かっていた姉の姿が重なる。夢を実現するのは選ばれたものではなく、信じ抜いたものである。己が欲する真に価値あるものは、容易く得られるようには出来ていないものだ。
俺が処置してダメなら保存不可(抜歯)!と、言い切れるぐらいのエンドドンティストを目指す。
エンドを通じて、患者に幸福を創造する、治らない治せないとエンドに泣く姿はイメージしない。
手早く、痛くなく、すぐに治癒に導けるエンドが出来るドクターをイメージする。…こうしてかくと気恥ずかしいものだが仕方が無い。
余談
姉の勉強の下に敷かれていたカーペット、椅子のあったぶエリアが擦り減ってツルツルになっていた。
それを見た親父は、姉に勉強机を買い与えて本当に良かったと、心底打ち震えるように思ったらしい。親泣かせである。
俺の机に関して述べることはないのは言うまでもないが、だが、親を泣かせる道にそれたことはないだろうと思っている。
姉に比べて立派なことを成し遂げたわけではない自分だが、これで十分だとも思うのである。
自助論 (知的生きかた文庫)
君たち,なぜ歯科医になったの?
デンタルオフィスナビゲーション 勤務医として働くということ―学び・技術・対応 (Welcome to Dental Office)
「素っ裸のまま戦場に放っぽりだした」状態
協力型施設に研修に行く時期は決まっていた。大学での研修では臨床経験不足は否めないことは明白であった。不安は大きかったが、来るべき時がきたらやるしかないとカラ元気で構えることにした。
肚を括る悟りの境地ではない。「無い袖は振れない」自分を納得させる諦めの境地である。
ただし、臨床経験に乏しくとも知識だけでもと本を読むスタンスは継続し、TEK練習、技工、形成の練習は続けていた。これが実際の患者さんを目の前にした時に20%でも力を発揮してくれれば良いと思っていた。
思えば、この頃に抜髄や感根処を、最初から最後(修復・補綴)まで行ったことは、一度としてなかった。
根治といえば根貼であった。他のDrが触れた根管を、少し触って何かを貼薬するのである。FC、FG、クレオドン、メトコール、JGからクロラムフェニコールまで、おおよそ、主流な貼薬剤は揃っていた。それを完全な理解と裏付けがない状態で選択していたのである。根管内の感染源を機械的に除去することで根幹の無菌化が図られ、根幹外、すなわち生体に対して無害の存在となり、病変が生体の生命力・治癒力により消退する。これが原則である。根貼は薬剤による無菌化を担うものではない。次回のアポまで根幹内の無菌状態をキープさせる為のものである。
…それを知り得ていながら、薬剤に頼ろうとしてしまう自分がいるのである。この場合は、perだからクレオドンにしよう。FCよりはFGが、グアヤコールなんでマイルドでよかろう…
このように適当な根貼を行っても薬剤による症状が出なかったのは、根管があいていなかったからであった。まともに開いている根管の方は少なかった。そしてすぐに詰まってしまった。
EMRが0.5を指すところが根尖最狭窄部を示し、基準点をもって作業長とできる。
空いてない根管がほとんどである以上、まともに0.5を差した試しがなかった。大学のEMRはぶっ壊れているものだと本気で思っていたのだった。根貼の次のステップにはいつまでたっても到達せず、畢竟、根充をした覚えがない。GPがある程度挿入できるまで拡大したら#30をいれているようだが、そういうものなのだろうか。号数が低いほうが、根先部の拡大は少なく、歯質は多くはなるが。最終拡大号数は気分やGPの最小号数だからという理由で決まるのであろうか?俺は混乱した。
ファイルの操作についての詳しいレクチャーや指導も受けなかった。
世間一般の根治のレベルも実態も、どのようなものなのか皆目見当もつかなかったし、このような状態の自分に抜髄(の症例)がきたら、どれだけ時間があっても完遂できる気がしなかった。
肚を括る悟りの境地ではない。「無い袖は振れない」自分を納得させる諦めの境地である。
ただし、臨床経験に乏しくとも知識だけでもと本を読むスタンスは継続し、TEK練習、技工、形成の練習は続けていた。これが実際の患者さんを目の前にした時に20%でも力を発揮してくれれば良いと思っていた。
思えば、この頃に抜髄や感根処を、最初から最後(修復・補綴)まで行ったことは、一度としてなかった。
根治といえば根貼であった。他のDrが触れた根管を、少し触って何かを貼薬するのである。FC、FG、クレオドン、メトコール、JGからクロラムフェニコールまで、おおよそ、主流な貼薬剤は揃っていた。それを完全な理解と裏付けがない状態で選択していたのである。根管内の感染源を機械的に除去することで根幹の無菌化が図られ、根幹外、すなわち生体に対して無害の存在となり、病変が生体の生命力・治癒力により消退する。これが原則である。根貼は薬剤による無菌化を担うものではない。次回のアポまで根幹内の無菌状態をキープさせる為のものである。
…それを知り得ていながら、薬剤に頼ろうとしてしまう自分がいるのである。この場合は、perだからクレオドンにしよう。FCよりはFGが、グアヤコールなんでマイルドでよかろう…
このように適当な根貼を行っても薬剤による症状が出なかったのは、根管があいていなかったからであった。まともに開いている根管の方は少なかった。そしてすぐに詰まってしまった。
EMRが0.5を指すところが根尖最狭窄部を示し、基準点をもって作業長とできる。
空いてない根管がほとんどである以上、まともに0.5を差した試しがなかった。大学のEMRはぶっ壊れているものだと本気で思っていたのだった。根貼の次のステップにはいつまでたっても到達せず、畢竟、根充をした覚えがない。GPがある程度挿入できるまで拡大したら#30をいれているようだが、そういうものなのだろうか。号数が低いほうが、根先部の拡大は少なく、歯質は多くはなるが。最終拡大号数は気分やGPの最小号数だからという理由で決まるのであろうか?俺は混乱した。
ファイルの操作についての詳しいレクチャーや指導も受けなかった。
世間一般の根治のレベルも実態も、どのようなものなのか皆目見当もつかなかったし、このような状態の自分に抜髄(の症例)がきたら、どれだけ時間があっても完遂できる気がしなかった。
2012年03月08日
フレッシュな時代には
ドクターなら何でも完璧に処理ができる、ハズはない。
新人の医師が未熟であろうことは誰でも思うことだ。
無論、国家資格を有し「師」の称号があるのだから本来、未熟であることは認められないことかもしれない。だが、優秀な医師に育て上げるのは患者であり、大なり小なりの患者の犠牲を元に医師の未熟さが消えていくのが現実だ。
駆け出しの頃は、患者さんに迷惑をかけてしまうことを自覚した上で誠心誠意を尽くして診療に当たり、自らが行った診療行為の結果を客観的に科学的に評価して体験を経験にする。
最低限、この姿勢で未熟な時代を過ごすことで、非難されることもなく、また実り多いものとなろう。
未熟さを大目に見てもらえる金で買えない貴重な時期なのだ。
出来ないことは恥ではない。出来ないままにいることこそが恥である。
臨床歴が二桁に及ぼうとしてまだまともに診療を任されない(信頼されていない)者ほど惨めな存在はないのである。
失敗をするなら若いうちにしておけ、とは乱暴だが至極、真っ当な表現なのだ。
翻って、自分はどうであったか。
研修医時代は、大学の協力型施設(大病院の場合もあるが、多くは一般開業医院である)に四ヶ月(12・1・2・3月)お世話になった。8ヶ月は大学にいたが、殆どは見学と介助であった。
国家試験に合格し晴れて歯科医師となれたことで慢心していたのだろう、今にして思えば怠けていたの思うのである。気が抜けるにしても、なにしろ、合同庁舎の合格発表掲示板を前にして、自分の受験番号が張り出されているのを見た瞬間、脱力してヘナヘナとその場にへたり込み、達成感と安堵感が混錯しているのを感じながら感きわまり嗚咽したのである。一笑に付されると思うが、不合格であれば自殺する気持ちがあった。もう一年、同じ勉強をしろと言われたら死を選ぶ心境にあったのだ。黒歴史のようで恥ずかしいだが、ここに正直に記しておきたい。
そう思い至るほど勉強に打ち込んだのである…と格好つけて言いたいところだが、精神的に苦境に立ち向かえず逃避情動に走る弱い自分がいただけのことである。試験前のプレッシャーに潰されそうになっている自分の夢をいまでも見ることがある。心はまだ弱いままなのだろう。
話がそれてしまったが、研修医時代の大学パート八ヶ月は、この文章を読んでいる貴方が想像するほど、患者の診療に従事していなかった。大学病院の規模が診療所となり、患者数が丁度降下を始めていた時期でもあり「人手が足りねぇ、お前、やれ!」というパズーの親方のようなセリフばなかったのである。とはいえ、初の本格的な研修医制度の幕開けだけはあり、指導医の先生方は献身、丁寧、親密に接してくれたものであった。もっと甘えて迷惑をかければ良かったのにと今にしておもうのである。何を遠慮していたのだろうか。
もし忌憚なく質問や指導を仰いでも、今の自分にはレベルが高すぎて頭を素通りするから…と自分で勝手に想定して納得していたのだと思う。一見して謙虚に映らなくもないが、駆け出しの研修医という身分の人間においては相応しい姿勢ではない。
この頃は、実際の診療は数をこなせないと分かっていたので、大学の図書館の本を片っ端から読み漁ったり(実態は流し読みである)診療終業後にTEKの練習、形成の練習に明け暮れていたことを思い出す。
他の研修医に比べれば真面目に見えただろう。
だがこれが実力に結びついた保証はない。大学にいた八ヶ月は、おおよそこのように過ごした。
時折、外で同期にあった時に、もう根充までしているとか、デンチャーのバイトを採っているとか、抜歯をしたとかを耳にすると、無用に心が焦ることを感じていた。別に競争ではないのだからと思うものの、内心は心穏やかではなかったのである。
外科医と「盲腸」 (岩波新書)
新人の医師が未熟であろうことは誰でも思うことだ。
無論、国家資格を有し「師」の称号があるのだから本来、未熟であることは認められないことかもしれない。だが、優秀な医師に育て上げるのは患者であり、大なり小なりの患者の犠牲を元に医師の未熟さが消えていくのが現実だ。
駆け出しの頃は、患者さんに迷惑をかけてしまうことを自覚した上で誠心誠意を尽くして診療に当たり、自らが行った診療行為の結果を客観的に科学的に評価して体験を経験にする。
最低限、この姿勢で未熟な時代を過ごすことで、非難されることもなく、また実り多いものとなろう。
未熟さを大目に見てもらえる金で買えない貴重な時期なのだ。
出来ないことは恥ではない。出来ないままにいることこそが恥である。
臨床歴が二桁に及ぼうとしてまだまともに診療を任されない(信頼されていない)者ほど惨めな存在はないのである。
失敗をするなら若いうちにしておけ、とは乱暴だが至極、真っ当な表現なのだ。
翻って、自分はどうであったか。
研修医時代は、大学の協力型施設(大病院の場合もあるが、多くは一般開業医院である)に四ヶ月(12・1・2・3月)お世話になった。8ヶ月は大学にいたが、殆どは見学と介助であった。
国家試験に合格し晴れて歯科医師となれたことで慢心していたのだろう、今にして思えば怠けていたの思うのである。気が抜けるにしても、なにしろ、合同庁舎の合格発表掲示板を前にして、自分の受験番号が張り出されているのを見た瞬間、脱力してヘナヘナとその場にへたり込み、達成感と安堵感が混錯しているのを感じながら感きわまり嗚咽したのである。一笑に付されると思うが、不合格であれば自殺する気持ちがあった。もう一年、同じ勉強をしろと言われたら死を選ぶ心境にあったのだ。黒歴史のようで恥ずかしいだが、ここに正直に記しておきたい。
そう思い至るほど勉強に打ち込んだのである…と格好つけて言いたいところだが、精神的に苦境に立ち向かえず逃避情動に走る弱い自分がいただけのことである。試験前のプレッシャーに潰されそうになっている自分の夢をいまでも見ることがある。心はまだ弱いままなのだろう。
話がそれてしまったが、研修医時代の大学パート八ヶ月は、この文章を読んでいる貴方が想像するほど、患者の診療に従事していなかった。大学病院の規模が診療所となり、患者数が丁度降下を始めていた時期でもあり「人手が足りねぇ、お前、やれ!」というパズーの親方のようなセリフばなかったのである。とはいえ、初の本格的な研修医制度の幕開けだけはあり、指導医の先生方は献身、丁寧、親密に接してくれたものであった。もっと甘えて迷惑をかければ良かったのにと今にしておもうのである。何を遠慮していたのだろうか。
もし忌憚なく質問や指導を仰いでも、今の自分にはレベルが高すぎて頭を素通りするから…と自分で勝手に想定して納得していたのだと思う。一見して謙虚に映らなくもないが、駆け出しの研修医という身分の人間においては相応しい姿勢ではない。
この頃は、実際の診療は数をこなせないと分かっていたので、大学の図書館の本を片っ端から読み漁ったり(実態は流し読みである)診療終業後にTEKの練習、形成の練習に明け暮れていたことを思い出す。
他の研修医に比べれば真面目に見えただろう。
だがこれが実力に結びついた保証はない。大学にいた八ヶ月は、おおよそこのように過ごした。
時折、外で同期にあった時に、もう根充までしているとか、デンチャーのバイトを採っているとか、抜歯をしたとかを耳にすると、無用に心が焦ることを感じていた。別に競争ではないのだからと思うものの、内心は心穏やかではなかったのである。
外科医と「盲腸」 (岩波新書)
2012年03月07日
本物の歯根との初陣
初めて触った「根治」は、右下6の感根処であった。
研修医の時分である。
急化perで痛いと訪れた中年男性であった。
医療面接は自分が行い、急化perと診断、デンタル一枚を撮影して、指導医に説明。
FCKを除冠して感根処、の流れと相成った。
主訴は痛みなので、まずはこの右下6が治療対象となるのである。
デンタルの像を正確に思い出せないが、E-P病変かP-E病変かどっちかな?と聞かれたのを思い出す。
GPXを持ってくるように言われて用意したのを覚えているので、除冠、コア除去、GP除去は行ったのだろう。EMRもあったが、根管を開けていたかは思い出せない。
その後、指導医に交互洗浄したあとにFGを貼薬して仮封しておいて、と指示を受けた。
感根処でFGの貼薬を、ということは、おそらく根管はあかなかったのではないかと思う。
実習でやった通り、ネオクリーナーとオキシドールで交互洗浄を行い、ブローチ綿栓で根管を清拭、FGを貼薬した。こうかくと実にスムーズだが、実態は、結構な時間がかかって苦労したのは言うまでもない。
奥場が洞窟の奥底のあるような、実に遠く、自分の指と手の大きさに戦慄した。
こんな難しい治療、最初から最後まで、出来るようになれっていうのか?
学生時代の根治の実習を思い出した俺は、胃が痛くなった。
研修医の時分である。
急化perで痛いと訪れた中年男性であった。
医療面接は自分が行い、急化perと診断、デンタル一枚を撮影して、指導医に説明。
FCKを除冠して感根処、の流れと相成った。
主訴は痛みなので、まずはこの右下6が治療対象となるのである。
デンタルの像を正確に思い出せないが、E-P病変かP-E病変かどっちかな?と聞かれたのを思い出す。
GPXを持ってくるように言われて用意したのを覚えているので、除冠、コア除去、GP除去は行ったのだろう。EMRもあったが、根管を開けていたかは思い出せない。
その後、指導医に交互洗浄したあとにFGを貼薬して仮封しておいて、と指示を受けた。
感根処でFGの貼薬を、ということは、おそらく根管はあかなかったのではないかと思う。
実習でやった通り、ネオクリーナーとオキシドールで交互洗浄を行い、ブローチ綿栓で根管を清拭、FGを貼薬した。こうかくと実にスムーズだが、実態は、結構な時間がかかって苦労したのは言うまでもない。
奥場が洞窟の奥底のあるような、実に遠く、自分の指と手の大きさに戦慄した。
こんな難しい治療、最初から最後まで、出来るようになれっていうのか?
学生時代の根治の実習を思い出した俺は、胃が痛くなった。