2012年02月22日

ただいま準備中

エンドについて書きたいことを手元のノートの書き出して準備をしているところです。
いざ、ブログのテキストにしようと思うとかなり大変なものです。
著書を出版されている先生方の、その労力の大きさを実感させられます。感服。


思えば
卒業して研修医となってからは、まずは根治から始めてきたものです。
多くの先生方もそうだと思います。
はじめは、根治か、簡単なC処か、TBIとか、デンチャーの研磨とか…ね。

しかしエンドについては「こうやるんだゾ」という具体的な方法は教わらなかった。
思い起こそうにも、思い出せない。聞いたけど俺の耳に念仏で頭に残らなかったのか。

学生実習の延長と考えるには、明らかに目の前の根管は異形の姿をしていた。根管開いてないのがあたりまえ、根管口明示もろくにされていない、唾液の洪水、臼歯はこれどうやって「無菌」的に根充にたどり着けるんだ?


ファイルは1/3〜1/4以上回すんじゃねぇ!と喚き散らしていたライターのエンド治療を登院実習で観察してみると、誰がどう見ても回しまくっている。

エンドの実習中、かたくなにファイルを回さない我々の班は、班員全てが例外なく実習の最後にたどり着けなかった。別の斑では、ファイルを回しまくっていたようだ。そうすると速く削れたから最後までいけたのだと実習後に聞いた。なんだそれは。オセーよと煽られまくった我々はなんだというのだ。曖昧模糊としてつかみ所のない実習がエンドであった。こんなのを治療として、将来、診療室で行えるのだろうか?
俺は胃が痛くなった。


研修医生活が始まって根管に触れてみれば、何のことはない、ファイルを回しても指導医に怒られないし、回して根管を開けろだのファイルを根尖部に進めろだといわれる。しかし、具体的なエンドの指導は、それぐらいであった。開かない根管をどうやってあけるのか、髄腔穿孔〜天蓋除去〜根管口明示が人によって統一されていないようにみえた。
自己流でやれよという世界にしか見えなかった。


「根治は真面目にやっても点数も低いし、痛みも出るし、テキトーにやっても(なんだかんだで慢性化するので)大丈夫」という、生体の生命力の上に胡坐をかいた姿勢があることに気づくのはもう少し後のことである。

そしてまた、いったん歯科医師となってしまうと、研修医であっても、自分の仕事振りを学生時代のようにキャンキャン言われたりチェックされなくなっているのである。厳しくチェックされてしかられているうちが華なのだが、国家試験に合格してライセンスを得てしまった身分となるとどうしても自分に甘くなる。叱ってくれる人がいることの有り難さを疎ましく思うようになる…。

歯科医師は、第三者に客観的に評価されることが極めて少ない業種なのだ。
自己流がまかり通るので、誤った方法が身体に刻み込まれていく。

それは、自分自身のエンドについても同様のことであった。 
 
posted by ぎゅんた at 21:10| Comment(0) | 根治(回想) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする