2023年09月10日

根管内の破折ファイルの除去

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4根管でDLに破折ファイルが存在した

最近の臨床から、破折ファイルの除去について思うところがあったのでクソ記事を書くことにした。


今まで、根管内にある要除去破折片は、私はどれもを超音波チップで除去してきた。

要破折片(多くが手用ファイルやNiTiファイルの先端部分)を除去する手法は、現在とは異なりマイクロスコープがエンドで使用されてもいないような時代に、私の師匠が見せてくれたので印象深い。診療フロアの片隅に物干し台の様に埃をかぶっていたMANIの初期のマイクロスコープとオサダのENACにエンド用チップで除去していた。

さてこのMANIのマイクロスコープ、可動部が重々しいことから取り回しがも悪く、ハロゲンの明るさも昨今のLEDのそれに比べて低かった。外部モニタに映像を出力させることもできていたが、様々な機器を「挟ませる」必要があったので、大変な手間であった様に思う。チェアサイドが一気に物々しい存在感に支配されるのであった。フロアの動線に干渉が生じる始末であった。だから、特別な場面でなければマイクロスコープは単独使用することになった。

根管内に刺さる様に引っかかっている破折片に、微振動するチップを当てて緩ませればプッと飛び出してくるよ、と言って割合に苦労するまでなく除去していた様に思う。当時の私はやる気がない大学院生(歯医者になって2年目)で、根管内の破折片を除去するトピックに興味はあったものの、どの様なチップをどのようなパワーで用いるとか、チップの取り回しの勘所など、肝心の点を記憶に留めていなかった。これは、なにも知らないのと同じことである。

往時は、根管の中にファイル折れ込ませてしまうことは頻発していたように思われる。なにしろ空いてない根管を相手にするのが普通であった。手用ファイルは「回すんじゃねえぞ」と実習であれだけライターに釘を刺されて育ったのに、実際の臨床現場では誰もがファイルのネジ巻き作業員と化していたのだから。指にタコができるほどファイルをこねくり回して根尖まで開けたら褒められたりした。それはただの人工根管であるが、そんな考えすら脳裏になかったのだった。

いずれにせよ、根管に手用ファイルを挿入したらすぐに回す悪癖が常態化しているものだから、ファイル先端のピッチは伸びるし、当然ながら破折する結末を迎えることになる。もう下手に根管内をいじくり回さずにイオン導入法で根管内を消毒して終わらせた方がマシなのではないか?と考えたりした。

私の思い違いでなければ、当時のエンド臨床はこういうものだったはずだ。開かない根管を相手にしてどうやって治療を終わらせていったのかというと、ただ根尖歯周組織の炎症を慢性化させて誤魔化していただけなのだ。頑張ってネゴシエーションして根管の走行を損なわぬようstep-back praparationで拡大形成を進めて偉くなった気分になっても、患者はフレアアップを起こして戻ってきたりもする。

今にして思えば、根管洗浄の不備でdebrisを根尖から押し出しまくった結果だとわかるが、未熟な術者は自分術式が否定されたと受け止める。畢竟、エンドは真面目にやってもシンドイだけで報われないし保険点数まで低い、ということで面白くない。厭戦的になるのである。私がそうだった。歯を残す、というのは歯科医師に課せられる偉大な使命であることに疑いはもたなかったが、エンドで歯を残せる歯科医師になれる自信は持てなかった。エンドで歯は治せないから、無理に保存して根尖歯周組織の破壊が進行する前に抜歯してインプラント早急に咬合機能を回復させる、というムーブメントが醸成されていた時代だったようにも思う。

個人的な思い出話などどうでもよくて、この記事で肝心なのは、除去したい破折ファイルを具体的にどうやって除去するか?である。


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ひとまず、私自身が成功させてきた破折ファイルの除去は、以下の組み合わせである。

・スプラソン P-MAX2
・E8という型番の非注水チップ
・エンドモードでパワーメモリは4
・破折片は目視で確認できる(ストレートアクセスできる)

破折片にE8チップを当てて振動を加えるとプペッと飛び出す感じで除去できる。
特に今回のような症例であれば簡単だ。

理想的にはE8よりもっと細いチップを注水下で用いるのが良い気がしている。その場合は、必要な振動の確保のためのパワーを変更する必要あるかもしれない。

除去用チップは高価で出番も少ないアイテムなので好奇心の赴くままアレコレ試しにくいが、機会があれば別のチップでの除去を検討して術式を報告してみたいところだ。
 

posted by ぎゅんた at 21:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 根治(実践的) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月15日

歯科医師人生の、最後の患者

ふと自分の人生の終末を考えて生きるようになってきたことに気づく。
これは、いよいよ人生も佳境に入ったのだろうと前向きに考えることができる。いろいろなことがあった。しかしまだ、やりたいことは残っている。歯科治療はまだその深淵の入り口にも到達していない。歯科医業とは別にやりたいことも残されている(手を付けていないだけだ)。


私の歯科医師人生は、母校の研修医として始まった。
自分の初めての患者さんは、歯学部の(要は後輩)学生であった。奥歯の痛みが主訴で、はたして上顎智歯のう蝕が原因と思われ抜歯とあいなった。撮影したオルソパントモ写真に歯牙種と思われる所見があり「初めての患者でこれは、君は持ってるねえ」と口腔外科の指導医に言われたことを思い出す。主義的に難しい抜歯ではなかったが、なにせすべてが初めての研修医にとっては診断から説明から施術からすべてが緊張の連続で卒倒しそうであった。浸麻と歯周靱帯の切断までは問題なかったが、ヘーベルを近心頬側隅角にかけて脱臼させるところがうまくいかず指導医と交代した記憶がある。

それからも担当する患者が口腔外科の症例になることが続いて、口腔外科の指導医から「縁があるんじゃない?ウチに来なよ」と誘われたものであった。
悪い気はしなかったし、学生時代から口腔外科は好きだったので食指が動いたが、その一方、私は将来的に実家に帰って親の跡を継ぐGPになると考えていたことと接着歯学に強い興味があったことがあって思惟逡巡した。また、口腔外科の授業で口腔外科の講師自身が「口腔外科専門の病院を開業しても食っていけません」と述べていたことや、「口腔外科に行く連中というのは、聴診器をぶら下げて病棟を歩きたいだけ」とか「医者からバカにされてる連中」という陰口を聞いていたこともネガティブ要因としてあった。

今にして思えば、将来はなるようになるし、ネガティブ要因も「所詮は第三者の戯言よ」と聞き流して、口腔外科の専門医を目指して粉骨砕身、修行を頑張ればよかったのだ。平凡なGPになって分かったのだが、口腔外科の知識と技術に長けた歯科医ほど地域から望まれる人材もないのだ。

もっとも、自分の選択してきた進路に後悔の念はさしてない。
ただ、格好つけて言えば口腔外科に行かなかったのは若さゆえの蹉跌というやつで、本当のところは私に決断力がなかっただけだ。


大鐘稔彦の名著『外科医と「盲腸」』に、外科医の世界では「外科はアッペに始まりアッペに終わる」という教訓が語り継がれているというくだりがある。同じように、口腔外科にも「口腔外科は抜歯に始まり抜歯に終わる」という教訓がある。

外科医であればアッペ(虫垂炎)がそうだが、口腔外科医にとっては抜歯の診断からリスク把握、処置の遂行、適切な術式の選択と施術、誤診時の対応からエラーを起こした際のリカバリーに至るまで、そのすべてに対応できるようになればまず一人前である、という意味が透けてくる。箴言のように思える。

私自身は抜歯術に対して得意でも不得意でもないといったところだし、智歯の抜歯にしても手に余る難症例でなければ紹介せず自院で抜歯するようにしている。抜歯の秘訣は、まず第一によく効く局所麻酔であると考える。これは臨床的には「痛くない浸麻」というところでは半分正解であり、患者に無用な不安や緊張を抱かせない心理コントロールから確実な伝達麻酔の駆使をして及第点に及ぶと考えている。多くの歯科医師が考えておられる通り、「痛くない抜歯」とは言葉にすると簡単でも、実際は奥深く難しい。似たようなケースであれども同じ症例はひとつもない。

こういうこともあって、私は完ぺきに満足のいく上顎智歯抜歯ができたら、それこそ自分の歯科医師の最後の仕事にしてもいいと考えている。多分にロマンチストかもしれないが、初めての症例が上顎智歯抜歯であったのだから終わりもまた上顎智歯抜歯であってよいだろう。
簡単に抜けましたよ。多少の出血もありましたが今は止まっていますから安心してください、と患者の手を取って終わりを迎えられればいうことはない。『なみだ坂診療所』の織田鈴香の最後の患者が膝小僧を擦り剝いて泣いている女の子であり、『ER緊急救命室』のグリーン先生の最後の患者がトゲが指に刺さった女の子であったように。

グリーン先生はきっと、女の子の指のトゲを抜いた瞬間に思い出したのだ。かつて愛娘のレイチェルも、指に刺さったトゲを自分が抜いたことがあったと。だから、医師としての自分に別れを告げて残りの人生をレイチェルのために使う父親になること決心したのだと思う。そこには、曇りのない悟りがある。

学生時代、歯学概論の時間に「患者とは、心に櫛が刺さった人のことである」とならった。医者は、病を憎み患者を愛せよともならった。実際の患者は、わがままでスケベで指示を聞かず我儘で無礼さを兼ね備えていたりする、何のことはない我々歯科医師とまったく同じ人間であったりする。それでも歯科医院を訪れる患者は、歯痛をはじめとする生活の痛みを心に刺している人たちだ。医療の根源は手当てにあるときいたことがある。苦しみ煩悶する人に寄り添い、患部に手を当て苦しみを分かち合う心に癒しがあるのだと。病を抱える人のそばで訴えを聞き、安心させて、手を添えることであると。

歯科医師も長くやってると仕事への慣れがでてきて、望まれないアイデンティティに染まってしまうものだ。せっかちで、話を聞かず、怒りっぽく、損得勘定ばかりがはたらき、とかく独りよがりな歯医者になる。私も、そうだ。でも、これは良くないことだとわかっている。乱れた心理に整合性を与えようとアレコレ思索しても解決することはない。バラバラになっている部品を箱に入れてシェイクしても決して元には戻らない。臨床の場で自分で解決するしかない。最後の患者はまだまだ当分、先の話になりそうだ。
 

posted by ぎゅんた at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治以外の臨床 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月12日

贔屓の技工士さんにサブスクしたいっ

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最近の動画のライブ配信では、配信者に対してリアルタイムでサブスク(投げ銭)をすることができたりする。サブスクをすると、コメント欄に「○○さんが✖︎✖︎円のサブスクをしました」みたいな通知が出るようになっていて、サブスクに気づいた配信者から謝辞やコメントがもらえたりする。配信者側はお小遣いが貰えて単純に嬉しいし、サブスクした側も特別な好意を持つ相手(推し)から特別な扱いを受けるわけですから嬉しいわけである。使い古された表現ですが win-win な関係というやつである。

これらをして私が思いついたのは、いつもお世話になっている歯科技工士さん(以下、テクニシャン)にサブスクができないものだろうか?ということである。

納品された歯科技工物が極めて良好な出来でセットできたとしたら、これを作製してくれたテクニシャンに「良いね!」したくなるのは、SNS全盛な世の中であることに関わらず人情というものであろう。

当院ではまだ導入していないが、口腔内スキャナーによるデジタル印象が一般化してくれば、歯科技工所との連携はより効率的になっていくだろう。歯科医院と歯科技工所との関係も濃密になるのではないか、と思う。従前の技工指示書にドクター側が文章で注文をつけている段階から、作成してくれるテクニシャンとオンラインで打ち合わせも可能になっているからである。リモートワークは、当然のように歯科医療現場でも活用できる(ただ、テクニシャンは奥手な人柄の方が多いと聞くので嫌がられるかもしれない)。

顔が見えている相手に気合の入った技工物を作ってもらえるというのは、臨床上、歯科医師冥利につきることであろう。これは良い流れのように思える。

我々は送られてくる技工物をセットするだけではなく、その先の、技工物を作成してくれたテクニシャンの存在を忘れてはいけない。自分で歯科技工物を作製するのであれば話は別かもしれないが、今時、そのような歯科医師は絶滅危惧種であろう。

技工所との付き合いによっては、自分の技工物は決まったテクニシャンが担当になってくれたりする。その場合、言葉だけではない謝意を伝えるべきではないかと考える。寸志というやつである。

しかし、いくら寸志といえど相手が恐縮するほど高額であってはならない。色々な面で迷惑をかけるからである。受け取る側が負担に思わず、嬉しさだけを素直に持ってもらえるようなものが相応しいと考える。

このあたり、急ぎの場面でタクシーを拾って命拾いならぬタイム拾いをしたような場合、会計時にわざと釣り銭が出るような支払いをした上で「お釣りはいいですので、運転手さんが取っておいてください」と言って立ち去る昭和的な男のマナーに通じるものがあると思う。ほんの数百数十円だけれども、もらう側は棚ぼた的な嬉しがあるので気分も良い。遠慮のいらない額だからこそである。次の客を拾ったタクシーは、気持ちの良い接客をするだろう。客も、良いタクシーを拾えたと気分が良いに違いない。小さな善意が転がって世の中が明るくなるのである。

まあこれは書生論に近いものだろうが、テクニシャンに小さなサブスクをすることが悪いことであるはずもない。

現状、素晴らしい技工物を気持ちよくセットできたからといってテクニシャンに「良いね!」することもサブスクを送ることもできない。IT全盛なのだから、本来は指先ひとつでできてもよさそうなものだ。でも、できないので仕方がない。私は、石膏模型と指示書を受け取りに来てくれる担当者に言伝のように頼んでいる。贈り物は500円のQUOカードがせいぜいである。なんらかの折にQUOカードを入手することがあるのだが、あいにく私はコンビニを利用することがないのでこれを使うアテがない。そこで嫁や友人に渡すことが多いのだが、その送り相手にテクニシャンが加わるだけである。なんの意図も気負いもないのである。

もっとも重要なのは、正確で美しい作業用模型を提供することである。

しかし、怠惰に生きる私はその使命を充分にこなしているとはいいがたい。そんな私の不調法をカバーしてくれるような素晴らしい技工物を納品してくれるテクニシャンにはいくら感謝してもしきれないのである。
 
posted by ぎゅんた at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 根治以外の臨床 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする